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2024.02.24

ジョン・ガルブレイス『ゆたかな社会』を読む [コラム007]

ジョン・ガルブレイス『ゆたかな社会』を読む

コラム第7回目はジョン・ガルブレイス著『ゆたかな社会 決定版』(鈴木哲太郎訳・岩波書店2006)について書きたいと思います。

2006年の本と書かれていますが、第1版は1958年に書かれ、本書は1998年までに5回ほど時代に合わせて改定されていて、ここで解説する決定版は1998年版で文庫になったのが2006年です。基本的には66年前の内容ですが、2024年の今読んでも十分新鮮な内容の本です。ガルブレイス(1908-2006)は1978年に翻訳が出た『不確実性の時代』が日本ではベストセラーになったアメリカの経済学者で、かつては日本でも人気だったようです。さすがに私は3歳でしたので知らなかったですが。

この本を読んでみようと思ったのは、次のコラムは個人的に大好きな『消費社会の神話と構造』(J・ボードリヤール 1970)を取り上げようと思って調べていたら、「”消費社会の神話と構造”はガルブレイスの真似っ子だ」的なネット上のコメントを読んで興味を持ったからです。たしかに消費社会の取り上げ方に関しては似てはいますが、広告代理店の人なら当時でも常識的な話だったと思うのと、目的が異なることから、とりたててボードリヤールがガルブレイスからアイデアを盗んだとは思わない感じでした。しかし、そんな話はどうでもいいぐらい面白い内容でしたので、今回のコラムで取り上げようと思いました。

いつもながら前置きが長くなってしまいましたが、まず最初に「ゆたかな社会」で、ガルブレイスさんが言いたかったことを解説したのちに、登場する様々な概念について私が理解したことを説明してから、最後に少しだけ感想を書きたいと思います。

「ゆたかな社会」で言いたかったこと

ゆたかな社会で言いたかったこと

この本も400ページくらいに渡って、

1)「豊かな社会」を実現した経済学の歴史の説明
2)「豊かな社会」を成立させるための条件の整理
3)ガルブレイスさんが「課題と思うこと」の説明
4)その「課題」を解決する方法

が書いてある本です。

最終的な結論としては図で書いた2つのことに収斂しています。

ひとつめは「企業や個人はゆたかになったけど、公共的に支え合う仕組みも弱いし、社会自体が豊かになっていない」ということを言っています。この話は1958年のアメリカの話なので、現在の日本は公共的な施設や道路、鉄道などのインフラは充実しているので違和感があると思いますが、拡大しつつある貧富の差を国や自治体が解消していこうという雰囲気はあまりありません。

ふたつめは、「今の私達の生活に欠かせない”生産”の進化は、軍事産業によって作られている」ということを言っていて、インターネットなどの技術のように、当初は軍事的な目的で開発されたものを民間に応用することで、生活に欠かせないモノに変形したことや、NASAの技術だと宣伝されるような「新しい技術」などのことを言っています。現在の先端的な技術は民間の研究開発ではなく、軍事的な目的で巨額な投資をされて開発さたものが多いと言っています。

つまるところ、ゆたかな社会は「会社や個人が豊かにはなった」けど、「みんなが過ごしやすい社会」にはなってないんじゃないか、そして、その基礎は「大量虐殺兵器を作る技術」がわたしたちの生活を支えていて、「なんだか歪んでいるのではないか?」ということを言っています。

社会的バランスを保つために、消費税をふやしてみるのはどう?

「そしたらどうしたらいいのか?」というのが最後の提案で書かれています。

簡単に言うと「消費税を30%くらいにして”生産”に依存することなく不平等や雇用を守り過ごしやすい社会にする」※1という感じの提案が書かれていますが、「わたしたちが素直にその意見を受け入れることができるか?」という点については、素直に受け入れられないことが容易に推測できますし、自分も「いいね!」と即答できる自信はありません。

※1 本文では消費税は売上税と書かれていて、30%という数値は私がイメージで記載した数値ですので、ご注意ください。

ガルブレイスさんが言いたかったことは上記の2点です。しかし、今回のコラムではこの2点に焦点をあてるのではなく、この2点の結論に至るまでのお話が非常に興味深いストーリーだったり概念だったりしましたので、その点について解説していきたいと思います。その前に、まずこの本の構成がどのようなものかという点から説明します。

この本の構成

「ゆたかな社会」の構成

この本は24章に分かれていますが、4つのグループにわけて考えると理解しやすいです。

1)この本の目的の説明
2)豊かになるまでの話
3)豊かになってからの話
4)新しい時代への提案

とわけることができると思います。

この本がガルブレイスの代表作と言われる所以は、主に2の「豊かになるまでの話」と、3の「豊かになってからの話」についてわかりやすく整理していたからだと個人的には思います。

ここで話はそれますが、ガルブレイスの本はベストセラーが多く、それはなぜかというと、わたしは「タイトルの付け方」と「惹きつける書き方の文章」というのが実のところかと思っています。ガルブレイスは基本的には大学の先生の時代が長いのですが、1943年から1948年の間「フォーチュン」誌の編集者だった時期があって、その間に鍛えられた「文章力」がテキストを面白くさせていると考えられます。ただ、本書もそうですが「読みやすい」のと、話を面白くするための「装飾的なテキスト」が多いので、肝心の内容を忘れてしまいがちになり、面白かったという感想は残るんだけど、何を言っていたっけ?という傾向になりがちな感じもします。

豊かになるまでとなってから

話を戻して、この本の構成についてですが、豊かになるまでの話は、「経済学の歴史」「生産が解決したこと」の話をしていて、貧困な人々が多かった時代の課題を解決していくまでの流れを書いていて、豊かになってからの話は「生産の副作用」「インフレの話」「バランスに欠けた社会」の話を書いています。

ここからは、個人的に興味の持った点について絞って解説していきたいと思います。特に、本書の前書きでも書かれていますが、全体にわたって登場する「通念」の話がよく引用されるということと、何か新しいことを提案したりすると必ず立ち向かってくる「抵抗勢力」が登場しますが、通念はそのあたりを上手に説明していると思いましたので、まずは「通念」から解説します。

「通念」とはなにか?:人びとは最もわかりやすいことに賛同する

通念の特徴 ゆたかな社会

この本は「通念」という概念についての解説からはじまります。世の中の議論って「それは正論なんだけど、なかなか言いづらいよね。賛同は得られなさそうだな。」というように、正論を言うとちょっと仲間外れされちゃったりするような、「KY(空気を読まない)な奴」みたいに言われたたりするものです。

ガルブレイスは、空気を読む的な議論やみんなが賛成しやすい物語が世の中では人気で、そのような物語のことを「通念」だと言っています。図にガルブレイスが説明している通念の特徴をまとめてみました。

こうやってみると、面倒くさいと思うときの判断の根拠を列挙しているようです。

それではなぜ、ガルブレイスは最初に「通念」の話を出しているかというと、

通念というものがあるために、社会の思想や行動の継続性が保障されているのである。(中略)しかしながら、ある種の思想体系では、本質的に状況の大きな変化がなければ状況に順応しようとしない。そのような思想体系には、重大な欠陥があり、危険さえも含まれている。広範な経済問題についても、事実の進行の結果、通念はひどく陳腐化している。通念はわれわれの幸福にとって有害なものにさえなってしまっているかもしれない。

ゆたかな社会 P37
かつての通念は事実の進行で陳腐化する

「事実の進行の結果、通念はひどく陳腐化している」ことで、時代が変わっているのに、「昔の人気だった議論(通念)」を根拠にして、新しい考えを否定して、特定の人たちにとって都合のよい既得権益を守ろうとしているような社会になっていると話しているのですが、つまり「”通念”が邪魔をして社会のバランスが悪くなってる!」って言いたいので、まず最初に敵である「通念」について説明しています。

[豊かになるまでの話1] リカードの賃金鉄則:労働者の賃金は上限がある

リカードの賃金鉄則

ここからは、「豊かになるまでの話1」として「経済学の歴史」になりますが、なぜ経済学の歴史を書いているかというと、豊かでなかった昔の社会ではどのように考えられたかを説明するためです。そしてこの時代に作られた「通念」が後の新しい時代の邪魔をするようになるので、説明しておこうということです。

ここで登場するのが「近代経済学の創始者」と呼ばれるデヴィッド・リカード(1772-1823)です。特にここで取り上げるのは「賃金鉄則」と呼ばれるものです。賃金鉄則とは、最低生活水準以上に賃金が上がると労働供給が需要に対して多くなるから、過剰供給になって、賃金が安くなってしまうから、結局は上限がある自然価格になる的な話です。

ちなみにリカードさんは、この賃金は上限があるという話をしているものの、それには条件があると話しています。

売買され、数量的に増減するすべての物と同じように、労働にも自然価格と市場価格とがある。労働の自然価格とは、労働者の生存を可能ならしめ、数量の増減なしに労働者という種族が永続しうるに必要な価格である。(中略) リカードの主張も条件つきのものであった。それは「好転しつつある」社会においては、市場賃金が自然賃金より高い状態が無期限に続くことがあるかもしれないというのである。

ゆたかな社会 P48

だから、無条件に労働者の給与には上限があると言っているわけでなくて、経済が上昇傾向のあるときは上限はないよ、と言っているものの、

真理は虚偽に追いつけないのが普通であるけれど、大胆な主張を追いかける段となると、それは制限条件などを取り残したまま、まっしぐらに突き進む傾向をもつ。賃金鉄則は、妥協を許さないような明瞭な形で、世界の知識の一部となったのである。

ゆたかな社会 P48
かつては労働者の賃金は上限があると考えられていた

という形で、企業家(雇用する側)にとって都合のよい部分だけが「通念」として流通することになってしまった。これって今でも生き残っている考えではないかと思ったりします。会社が大きな利益を得ているからといって、その利益のすべてを社員に分配することはなく、会社の危機のために蓄えていて、さらに余った状態になっても平均賃金以上に給与を上げるということは、「何らかの考え方」に基づいてなかなか行われない気がします。この「何らかの考え方」が賃金鉄則だと思いました。

[豊かになるまでの話2] 「生産の増加」で不平等が問題にならなくなった

かつての社会では、階級社会がまだ残っていたこともあり、不平等が社会問題となっていたが、今は問題視されることはなくなった。今でも、政治家は高給取りだとか、一部の経営者は給与が高い反面、最低賃金で生活している人もいて、貧富の差が大きくなっている的な話もありますが、それが毎日ニュースになることはありませんし、選挙の公約になることも少ない気がします。

不平等に対する関心が薄らいだのは平等の勝利によるものだとはいえない。保守主義の通念ではいつもそういわれており、また実業家の不平からそう推察されることもできようが、不平等は依然として大きく、そしてますます大きくなっている。1970年には、所得が最低であるアメリカの全所帯のうち1/10の所帯の所得は国全体の所得のほぼ2%であった。所得が最高であるアメリカの全所帯のうち1/10の所帯の所得は全所得の27%であった。

ゆたかな社会 P119
不平等が問題にならなくなった

所得が多くなる人が増えたから、不平等が思ったよりもひどくならなったことと、富を持っている金持ちが以前よりも、政治的・社会的地位が低下して、以前ほど目障りな存在でなくなったことが理由として考えれると言っています。

それではなぜ所得が多くなる人が増えたのでしょうか。

先進諸国では生産の増加は再分配の代替物である。それは不平等に伴う緊張をほぐす偉大な解決策だったのだ。不平等が続いても、不平等を改める際に生ずるであろういうるさい矛盾を避けることができる。生産増加に専念するほうがはるかにましである。金持も貧乏人もその利益にあずかるので、双方とも合意できる方策である。

ゆたかな社会 P130

つまり、「生産の増加」により所得が増えて、不平等が思ったよりもひどくならなくなったとのことです。平等の勝利ではなく、とりあえず「生産を増加」したら不平等を叫ばなくなったので、安心安心ということになったということです。

[豊かになるまでの話3] 「生産の増加」は雇用の維持を実現できた

経済的保障は生産の増加で実現した

「生産の増加」は不平等の程度を下げることを実現し、さらに「雇用の維持」を実現することができるようになって、社会的にも「必要不可欠なもの」となっていきました。

では、どのような流れで「雇用の維持」が社会で重要視されるようになったのかをガルブレイスは解説しているかを見ていきます。

近代化した社会は競争社会となっていき、さらにアメリカではスペンサー(1820-1903)のような社会進化論者が「経済社会は人びとの競争場裡である。戦いの条件は市場によって決められている。勝利者の報酬は生き残ることであり、立派に生き残ればさらに富という報酬が与えられる。」(ゆたかな社会 P83)

というような競争社会を煽るよう発言をし始め、さらに競争社会では「経済的保障」がないことが本質的なこととされていたとのことで、

経済的保障の欠如が有益であるというのは、そのために実業家も、労働者も、自営業者も、最も能率的な最善のサービスをしようと務めざるをえないからであり、そうしなければ、ひどい目にあってしまう。

ゆたかな社会  P136

この考え方のままだと、不況になったら自分の努力では対処できずに、頑張っても罰を受けてしまう状況となってしまうが、当時は「不況はいつの間にか自然に戻るから、仕方のないもの」として放置されたみたいだったが、1930年代の終わりになるとそのような考え方もなくなってくる。

事実、マクロ経済的な措置による不安の減少は当時の政治政策の中心であった。(中略) 30年代の終りになると、ジョン・メイナード・ケインズの影響と、ニューディールが生み出した明るい実験的な気分の影響によって、不況は少なくとも部分的には防ぎうるものだという信念が拡がった。不況は放任すべしという考え方はほとんどなくなった

ゆたかな社会 P142
不況に対する社会の考え方が変わった

マクロ経済的な措置とは、ケインズ的な「不況のときは財政支出を増やして需要を作って経済を回そう」的な話です。

いままでのように市場社会に任せてしまうと、失業も増えてきて、社会が不安定になるという認識が一般的になってきたので、政府がある程度、不況から国民を守るように考えはじめました。さらにそれを背後で支えているのは「生産の増加」であることを示している。

高水準の生産は労働者や農民や実業家の経済的保障に不可欠である。生産が高水準にあれば、あらゆる人にとって一応の保障が与えられる。高水準の生産がないとすれば、少なくとも現行の方でのミクロ経済的な措置は次善の策にすぎない。 

ゆたかな社会 P157

マクロ的な経済措置だけでなく、失業保険、老齢年金、遺族年金、公正取引法、ダンピング防止法などのミクロ経済的な措置によって経済的保障が実現できるが、その前提として「高水準の生産」がないと無意味だといっている。

生産は社会で必要不可欠な存在となった

経済生活について昔の人が最も関心をもったもの、すなわち平等と保障と生産性とは、今や生産性と生産とに対する関心に集中されるに至った。生産は、不平等に関連してかつて生じた社会的緊張の解決策となり、また、経済的保障の欠如に関連する不満、心配、貧窮を解決するために必要不可欠のものとなったのである。

ゆたかな社会 P158

つまるところ、不平等や経済的保障の欠如から生じる不安などを解消することができる神様のような立場に「生産性と生産」が君臨することとなった。もう生産がない社会はあり得ないということです。そして、「社会を成立させるのに欠かせないのは生産だ」という通念が出現することになりました。

[豊かになってからの話1]「依存効果」とはなにか?

ケインズの必要理論
ケインズの2つの必要の理論

人が生きる上で必要と思うものはなんだろうか?ケインズ(1883-1946)はわかりやすい分類をしています。

人類の必要には二つの種類がある。他人がどうあろうとも自分はそれが欲しいという絶対的な必要と、それを満足させれば他人よりも偉くなった気がするという相対的な必要との2つである。

ゆたかな社会 P195

これは目から鱗な感じで、わかりやすい分類です。「生存に必要なもの」と「生存には必要ないけど欲しいもの」というように考える感じかと思います。前者は特に説明はいらないと思います。現在の買い物の多くは、後者のものを指すことが多いと思われます。

ケインズは次のように述べている。「第二の種類」の必要、すなわち他人におくれまい、あるいは他人の先に行こうという努力の結果として生ずる欲望は、「満足させようとしてもきりがないかもしれない、なぜならば、一般的に水準が高ければ高いほど、これらの欲望も大きくなるからだ。」

ゆたかな社会 P201

つまり、2つめの「相対的な必要」は「満足させようとしてもきりがない」ものだということで、今の社会は、この相対的な必要が多くを占めているので、需要の心配はないと言えよう。ということを踏まえて、そもそもなにのために生産をするのかを見てみよう。

昔の世界では、生産の増加とは、飢えた人に食物を、寒い人にもっと衣服を、家のない人にもっと家屋を与えることを意味したが、今の世界における生産の増加は、いっそう多くの優美な自動車、異国趣味の食事、エロティックな衣服、手の込んだ娯楽などの、あらゆる近代的な、感覚的な、不道徳な、危険な欲望を満足させるものである。

ゆたかな社会 P184

昔はケインズの「1つめの必要」のために生産をしていて、それが生産の理由だったはずだけど、いまは「2つめの必要」が多いと言っています。文章が「間違ったことはわしはしない!」という感じのおじいちゃんのような言い方なのは笑ってしまいそうです。しかも「2つめの必要=相対的な必要」は、「そもそも自分の中から出た欲望ものなのか?」かどうか怪しいと言っています。

(消費には)個人の欲望が重要であるというのならば、その欲望は個人自体から生まれるものでなければならない。個人のためにわざわざ作り上げられたような欲望は重要であるとはいえない。欲望を満足させるところの生産過程によって作り上げられた欲望はもってのほかである。

ゆたかな社会 P200
欲望は個人の中から生まれているか?ゆたかな社会「依存効果」

これは、広告企画や製品の営業をやったりしたことのある人は「ほんと、その通りやわ」と思わざるを得ない文ですが、「生産過程によって作り上げられた欲望」がわかりにくいかもしれないので説明すると、「メーカーが物を売りたいために広告やセールスマンを使ってユーザーに訴えかける」ということです。生産過程というのはメーカーのことです。

メーカーは生産することで雇用を確保し、それを販売するために広告訴求をして、人に欲望を作り上げるということを意味します。

AIDMの法則 買わせるための流れの基本

広告やマーケティングのお勉強をすると、最初の方に出てくるのが「AIDMAの法則」(アイドマと呼ぶ)で、サミュエル・ローランド・ホールが「消費者の購買活動における心理プロセスに注目して1920年代に提唱」した法則です。

この流れでプロモーションを打つのが基本だと言われ、購買を促進させるための法則です。つまり、「生産過程によって作られる欲望」の技術論となります。

近代的な宣伝と販売術は、生産と欲望とをいっそう直接的に結びつけている。宣伝と販売術の目的は欲望を作り出すこと、すなわちそれまで存在しなかった欲望を生じさせることであるから、自立的に決定された欲望という観念とは全然相容れない。

ゆたかな社会 P203

まさに、自律的に決定された欲望という観念とはおおよそかけ離れてしまっています。そして、新しいプロジェクトを行うときの予算配分の中にも当然広告宣伝費は計上します。

新しい消費財を売り出すときには、それに対する関心を起こさせるために適当な宣伝をしなければならない。生産を拡張する前には、宣伝費を増大させておかねばならぬ。近代的な企業の戦術においては、ある製品の製造費よりもその需要を作り出すための費用の方が重要である。

ゆたかな社会 P203
依存効果
依存効果

ガルブレイスは「メーカーは消費者が欲しいものを作っているのではなく、欲望をも作って購入させるところまでを計画」していて、ここまで行うことで高水準の生産が維持されていると最後にまとめて、「欲望は欲望を満足させる過程に依存する」ということから、この構図を「依存効果( Dependence Effect)」と呼んでいます。

すべての商品が依存効果で成立しているとは私は思いませんが、比較的、個人向けの消費財の生産と販売は依存効果があてはまるのではないかと思います。

私は製品企画やデザイン、マーケティングを業務でやっているので、このあたりの話は実感できる内容ですが、すべてが「絶対的必要」の製品である必要もなく、「相対的必要」も否定する必要性はないと思っています。無駄なものばかり生産している社会ではあるけど、無駄なものが人生を楽しくさせている側面もあるとは考えます。しかし無邪気にプロダクトデザインをするのも自分には合わないと思っているので、製造業にはこのような構造があることは意識しながら企画をするようにはしています。

[豊かになってからの話2] インフレの2つの対策:金融政策と財政政策

社会が豊かになり、みんながお金を持つと必ず発生する現象がインフレです。ここではインフレの発生原因と、経済学では大学1年生のときに習うと言われているインフレの2つの対策について解説します。

そもそもインフレとは何か?
そもそもインフレとはなにか?

第14章から第16章まではインフレについての話です。ここは私がインフレについてあまり考えたことがなかったので、自分のメモも含めてまとめておこうと思って解説したいと思います。

「そもそもインフレって何か?」から簡単に解説します。景気が良くなると、みんなの収入が上がるから、持っているお金が増えます。

なぜみんながお金を持つとモノの値段が上がるのか?

「持っているお金が増えると多くの人は買い物をする傾向がある」ので、商品の需要が高まります。そうなるとお店は「値段を上げてもみんなが物を買ってくれる」ので、お店の人は「もっとお金が欲しい」から「商品の値段を上げる」ことによって物価が上がっていきます。このように物価が上がることをインフレーション(Inflation)と呼びます。 インフレ自体の解説は「インフレとは?《小学生でもわかる》絵で学ぶ経済用語!(インカムラボ)」のページがわかりやすかったので、詳しく知りたい方はクリックして読んでみてください。

ガルブレイスはインフレに関する反応や対策について、具体的な行動ってあまり行われてないんじゃないかと指摘している。

インフレーションにたいする一般の反応というのは、なかなか興味深い。ともかくそれは、広く非難もされ、また好ましくないものとされてきた。共和・民主両政党の政治家いずれもが、インフレーションにたいして強い反対の立場をとってきたのである。(中略) 実業家や銀行家や保険会社の重役など、その他一般むけの職業的代弁者のほとんど誰もが、一度は必ず持続的インフレーションの危険にたいして警告を発してきた。(中略) にもかかわらず、こうした信念はおどろくほどわずかの努力しか呼びおこしていない。特定の行動を提案するという段になると、ほとんどないに等しいものである。

ゆたかな社会 P245
インフレが発生して助かる人もいる。

インフレが発生すると多くの人は困るけど、実は助かっている人もいる。先程のインカムラボのページでもインフレの良い点という図があるので、それを見ると納得できます。ガルブレイスは、お金を持っている政治家や実業家は、インフレで喜んでたりするから、口では非難するが実際には行動はしない。ということを言っています。

と言っても、インフレを放置しておくことはできないとのことので、インフレ対策として第15章で「金融政策」、第16章で「財政政策」について説明しているので、それぞれについて簡単に触れておきます。

インフレ対策の金融政策について
金融政策について (貨幣的幻想)

インフレ対策の1つとして、中央銀行が民間に貸し付けるときの基準金利(昔の公定歩合)を上げることで、企業などが融資を控えるようにさせて、お金を回さないようにすることで、経済的循環を低下させる仕組みのことを金融政策と呼ぶ。

ただガルブレイスは金融政策は、賃金物価の相互作用とはなんら直接的接触をもたないから、効果が期待できない的な話をしている。

金融政策は秘術的な効果をもたない点で弱い。以前からわかっていることだが、特にアメリカでは、経済の運営はときどき魔術的な手段を使ったほうがうまくいくらしい。中でもいちばん成功しそうな金融政策には、この魔術性がないのであって、この点を善良な市民は誰もが残念に思うよりほかはないのである。もうすこし地味な言い方をするなら、この政策は賃金物価の相互作用とはなんら直接的の接触をもたない。(中略)もしこの政策が功を奏するとすれば、それは財にたいする需要総額を減らすという経路をとるよりほかはない。この目的を達するための手がかりは、利子率を上げることと貸付用資金の供給を減らすことである。(中略)そして結局は、財全体にたいする需要を減らすか、または需要の増加率をおさえることとなる。

ゆたかな社会 P272
金利が上がったときの企業への影響

さらに、金融政策は大企業に対しては効果が薄いという。大企業は社内の貯蓄がたくさんあるから、工場を建設したり、設備を一新したりする費用は銀行からわざわざ借りなくても自分のところで賄えるから意味がないと言っている。

また、小規模の企業や個人事業主などに対しては大きく影響するので、危険でさえあると考えているようだ。

金融政策は、経済を操縦する道具としては、鈍い頼りにならず、差別的な、いくぶん危険な手段である。(中略) 高金利は、貸せるかねをもっている人にとっては、決していやな状態ではない。

ゆたかな社会 P283
財政政策について
財政政策について (生産と価格安定)

インフレ対策の最後の切り札として登場するのが「財政政策」です。「財政政策」は、「金融政策」と比べると、直接的に経済的循環を低下させることができる。具体的に何をするかはシンプルで

1)増税をする
2)支出を減らす(公共事業を減らすなど)

の2つを同時に行います。

しかし、インフレによって生活を維持するのが厳しい人びとが多い状況において、追い打ちをかけるように増税をするという政策であると指摘します。

増税の第一の明瞭な効果は、消費者の生計費を高め、またはその所得を減らすことである。しかも、インフレによって多くの人が従来の生活水準を維持することが難しくなっているときに、こうしたことが起こるのである。(中略)このように、増税によるインフレ対策は、一見して奇妙に逆立ちしたやり方であるように見える。

ゆたかな社会 P291

さらに「財政政策」は不平等の叫びを黙らせていた、高水準の生産を中断させる必要が出てきてしまう。

財政政策にとって最も深刻な問題は、ほかの経済的目標との矛盾である。財政政策は、第七章で述べたような所得の不平等に関する暗黙の休戦状態とまず衝突する。(中略) 財政政策は、生産と衝突する。この矛盾は、今では古典的といってもよい。(中略) われわれは生産が至上の重要性を持っていると信じ込ませられているのに、ここでは価格安定のために生産を犠牲にするよう自分に言い聞かせなくてはならないのだ。

ゆたかな社会 P291-292

これを納得させるのは、「ある程度のごまかし」で可能となると言っているが、根本的な解決からはほぼ遠いという見解を示している。しかし1995版では、インフレが解決されてきた社会になったと言っています。

この新しい状況は、労働組合の力が低下したことと、消費者サービス、娯楽、芸術、専門職業、ハイテクといった産業の重要度が高まっていることを反映している。

ゆたかな社会 P299

[豊かになってからの話3] 社会的バランスの理論:自動車はきれいだけど街はきたない

社会的バランスの理論

最初に書いたガルブレイスさんが言いたかったことの一つ「企業や個人はゆたかになったけど、公共的に支え合う仕組みも弱いし、社会自体が豊かになっていない」の部分になります。

現代の日本ではおおよそは改善された内容ではあるので、省略しようと思ったのですが、ガルブレイスが「はじめに」でこの章の文章がよく引用されると書かれていたので、私もその箇所を引用したいと思います。

ある家族が、しゃれた色の、冷房装置つきの、パワーステアリング・パワーブレーキ式の自動車でピクニックに行くとしよう。かれらが通る都会は、舗装がわるく、ごみくずや、朽ちた建物や、広告板や、とっくに地下に移されるべき筈の電柱などで、目もあてられぬ状態である。田舎へ出ると、広告のために景色もみえない。(商業宣伝の広告物はアメリカ人の価値体系の中で絶対の優先権を持っている。田舎の景色などという美学的な考慮は二の次である。こうした点ではアメリカ人の考えかたは首尾一貫している。) かれらは、きたない小川のほとりで、きれいに包装された食事をポータブルの冷蔵庫からとり出す。夜は公園で泊まることにするが、その公園たるや、公衆衛生と公衆道徳をおびやかすようなしろものである。くさった廃物の悪臭の中で、ナイロンのテントを張り、空気ぶとんを敷いてねようとするときに、かれらは、かれらに与えられているものが奇妙にちぐはぐであることを漠然とながら考えるかもしれない。はたしてこれがアメリカの特質なのだろうか、と。

ゆたかな社会 P303

改めて読んでみると、このテキストで社会的バランスの理論で言いたいことは十分伝わる気がしました。現在の日本ではここまでヒドイ状況は少なくなりましたが、交通量が少ないのに高規格の道路が多い地域や、人口がそんなにいないのにハイスペックな音楽ホールや美術館などがある地域などを思うと、これからの日本の社会を考えてみたとき、現在の設備を維持しきれるのかということの方が心配になってきました。

新しい階級:たのしく仕事をする人びと

仕事で能率を考える必要がなくなった

第19章以降は、それまでの問題を解決するための方法を説明しているのですが、その中で現在進行系の項目があったので、触れておきたいと思います。

ゆたかな社会では、「生産物の限界緊要性は低下している」から、能率を高めてまで生産をする理由もなくなっていると言っています。生産能率という縛りから解放されたあとの仕事ってどのようなものがあるかを説明しています。

余暇に価値が認められはしたけれども、生産能率に対する既存の態度と直接に衝突すると思われる他の道は相変わらずタブーとされているのである。社会がそれ自体の幸福について合理的な関心を持っていれば、これらの別の道も十分に考えてみる価値があるはずだ。これらの他の道の第一は、仕事をもっとたやすく、またたのしいものにすることである。

ゆたかな社会 P389

「仕事をたやすく、たのしいものにする」ことが生産能率以外の他の道であると言っています。個人的には生産能率を非常に高めて合理的に仕事をするのもいいんだけど、それだけだとつまらなくなってしまうから、楽しくするにはどうすればいいかを考えて仕事をしていたりするので、とっても理解できる内容でした。現在それを可能にしているのはコンピューターだと言っています。

昔は、仕事といえば、苦痛、疲労、その他の精神的または肉体的不快さというひびきを持っていたが、この新しい階級にとっては仕事はそのようなひびきを全然もっていない。そしてまた、コンピューターによって仕事の質が引続き変革されていることにより、この新しい階級の成長が加速されている。

ゆたかな社会 P395

この部分が第一版にあるとすれば、1958年当時にコンピューターで仕事の質が変革されていると言っているのは驚きです。わたしもパソコンがなければ今の自分がやっている仕事は成立しないと思いますし、パソコンがあるおかげでこのような働き方ができていると実感するときは少なくありません。

おわりに

今回はとても長くなってしまいました。全てを読んで頂いた方には感謝しかありません。「ゆたかな社会」は他にもスペンサー、ヴェブレンマルクスなどの解説したい箇所もありましたが、話が複雑になってしまうので省略しました。

この本で最も重要なのは「依存効果」の章だと思います。生産を成立させるために、広告で人に欲望を植え付けて消費させることで、経済を回し、不平等や貧困を回避し、経済的な保障を成立させるというストーリーは、現在でもその枠組から外れているとは思えません。特に「欲望を造出する」という箇所は、ネット社会ではますます加速していっていると思います。「欲しい」と思ったら「ポチッと」クリックして購入ができるというのは、便利ではあるけど「欲望を抑える」ことから離れていっています。ある種動物的な動きをさせる印象さえも受けます。

さらにゲームなどでは露骨に欲望を煽るように設計されている場合もあります。8年前の2015年に「FLOWER KNIGHT GIRL」というブラウザゲームの遊び方説明の欄に「プレイヤーがじゃぶじゃぶ課金したくなるような射幸心を煽りまくる説明文章」というサンプルテキストがそのまま掲載される出来事がありました。もはやここまで来ると、プロパーの倫理観は無意識レベルでどこかにいったみたいです。

最後に、プロダクトデザインは製造業に関わる職業で、製造業では生産数を上げることで、利益を上げるという前提があり、デザイン次第で販売数に影響があり、当然ながら生産にも影響が出てきます。自分に期待されていることが、販売数を増やすためのデザインであることから、欲望を造出するという役割を担っているのは理解していますが、マーケターとしての立場もあり、立場的に少なくとも強制的に販売させるような仕組みを作ることは避けるようにはしなければならないと考えています。(トリイデザイン研究所 鳥居)

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