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アーヴィング・ゴフマン『日常生活における自己呈示』を読む [コラム020]

アーヴィング・ゴフマン『日常生活における自己呈示』を読む[コラム019]

コラム第20回目は、私たちが生活している社会を「社会構造」のような大きな物語から描くのではなく、「個人の自我」の集まりというように描くのではなく、社会を「日頃の何気ない振る舞い・やりとり」から描いたアーヴィング・ゴフマン(1922-1982)の代表作である『日常生活における自己提示』(中河伸俊・小島奈名子訳/ちくま学芸文庫)(原書初版1959)を取り上げたいと思います。

この本は国際社会学会が選定した「20世紀の社会学で最も重要な10冊」に選ばれており、『ディスタンクシオン』『文明化の過程』『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に続き、本コラムでは4冊目になります。

話し手が「印象を与える」3つのツール=外面

ゴフマンは「人と人のやりとり(コミュニケーション/相互行為)」で大きな役割を果たしているのが「舞台装置」「見かけ」「言葉遣いや身のこなし」だと言っていています。

それらは話をする人(パフォーマー)が聞く人(オーディエンス)に対して「印象を与えるツール」だと言っています。

そのツールを上手に使うことでパフォーマーは自分の「伝えたい印象」を伝えることができて、彼らの中の「秩序が維持できる」といいます。

この本は「エチケットやマナーを持って話をする」という、今の社会に生きている私たちにとっては当たり前のことを言っているわけですが、その構造を調べて体系化した内容の本だと思いました。人間のコミュニケーションの行為を詳しく調べることで、「社会構造」や「個人の自我」からだけでなく、「人と人の関係のありかた」からも「私たちの社会」「秩序のある人の集まりの世界」を説明できるようにしたことが、ゴフマンの功績なのだと思います。

デザインが「舞台装置」と「見かけ」をつくる

見た目を作る仕事の立場としてのデザイナーとしてはこの本は、「スタイリング」が「コミュニケーションツール」であり、モノや空間のデザイン(見かけ)が「それを持つ人の印象を与える装置」としての意味を持つことを自覚させる本だと思いました。

「ミニマル」「装飾的」「荘厳」「親しみ」「ポップ」「伝統的」など、デザインを表すさまざまな言葉がありますが、それらはその人の印象を作っているのは間違いありません。特に衣服や髪型は強く印象をもたらすもので、その人がどのようなグループで生きているかを「推測させる」(実際は中身と一致しているかはわからない)機能を持っています。

ゴフマンが最後に言っているように、これは一部の文化の人々の話であり、全世界に普遍的に行われている話ではないですが、日本で住んでいる限り違和感のない内容でしたので、「印象を与える装置」としての「見かけ」という側面に興味がある方はオススメする本です。ゴフマンも言っていますが、序論は抽象的で読みにくいので読み飛ばして、第一章から読むのをおすすめします。

この本の構成

『日常生活における自己呈示』の構成

この本は大きく4つの部分から構成されています。

第1章から第3章までは、「基本概念の説明」をしていて、人と人のやりとりを行うための「道具」を整理して、その道具について説明しています。

第4章と第5章は、パフォーマーの与えられた役割を逸脱する話を解説しています。スパイやサクラなどの、見かけと食い違った役割とは異なる役割を果たす人などの話を解説しています。

第6章は、パフォーマンスを台無しにさせないためのルールをまとめた「印象管理の技法」が書かれています。第7章はまとめです。

当コラムでは、主に「基本概念の説明」「印象管理の技法」についてわかりやすく解説していきたいと思います。

[基本] パフォーマーとオーディエンス

二人の人がいるとき、話し手を「パフォーマー」、聞き手を「オーディエンス」というように演劇の役のように考えるところからスタートします。

パフォーマーとオーディエンス

そのとき、パフォーマーの「服装や髪型などの見た目」「話し方」「視線の配り方」などから、パフォーマーは「私はこんなにカワイイ格好をしてるから、眼の前にいる人は、私のことをカワイイ人だと思うに違いない!」と期待する。

オーディエンスの方は、パフォーマーに対して「カワイイ人だ!」という印象を持ったら、性格も「可愛らしい人に違いない!」と、何も考えずに多くの人はそう推測する。ちょっとしか話をしていないにも関わらず。

このように、日常生活のコミュニケーションを演劇のように「パフォーマー」と「オーディエンス」に分けて考えていきます。これをドラマツルギー分析といいます。

シンシアとシニカルなパフォーマー

次にゴフマンはパフォーマーは「それに携わる人自身が、その人たちのあいだで作り出そうとしている
現実についての印象をどの程度信じている
のか」
(P37)と言っていて、自分がどれくらい相手にもたらそうとしている内容が本当かどうか?という視点から考えるほうが、パフォーマーの行為であるパフォーマンスを捉えやすいといいます。

そこで自分を信用している度合いで、「心からのパフォーマー(シンシア)」「うわべだけのパフォーマー(シニカル)」の2つに分類します。

最初は「シンシア」だったけど、そのうち現実を知ってきて「シニカル」になったり、最初は「シニカル」だったけど、現実に慣れてきて「シンシア」になったりするように、一人の中でも変動することを例を挙げながら示します。その移動の例として医師の例を挙げています。

医学部の学生についていえば、理想主義に駆られた新入生は通常、かれらの聖なる抱負を一定期間脇に置くことになる。最初の二年間、医学生は自分の全時間をどうやって試験を無事通過するかを学ぶ作業に費やすことになり、当初あった医療への関心を放棄せざるをえないことに気づく。次の二年のあいだは、さまざまな疾病についての学習に忙しく、それにかかった人たちのほうに関心を示す余裕はほとんどなくなる。医療サービスをめぐる当初の理想についてふたたび口にするようになるのは、医学部での教育が終了した後のことなのである。

『日常生活における自己提示』第一章 P43

[基本] 外面:「意図する行為」と「意図しない行為」

パフォーマーとオーディエンスが行う行為を「パフォーマンス」と呼び、そのパフォーマンスのうちに、「一般的かつ固定的なかたちで規則正しく機能する部分」を「外面」と定義します。

外面 = 標準的な表出の装置

つまり「外面」とは、パフォーマンスの中でルーティンに行う部分です。その「外面」は、「個人がパフォーマンスの過程で、意図して意図しないで使う標準的な表出の装置なのである」(P44)としています。

話し相手の前では、意図的に「自分をよく見せよう」とする反面、どうしても「あくび」や「言い間違い」のような「意図しない行為」も登場してします。

この2つが同時に存在するとき、オーディエンスが受け取る印象は変わってきます。

[基本] 外面:舞台装置、見た目、マナー(言葉遣いや身のこなし)

話し手が「印象を与える」3つのツール=外面

続いて、「外面」には3種類あることを説明します。

■1つ目は「舞台装置」です。
「家具や内装、物理的なレイアウト、その他の背景となる小物類を含む「舞台装置」がある」(P44)と書かれており、これは「豪華な空間」「儀式的な空間」「綺麗な部屋」「汚い部屋」などのパフォーマンスが行われる舞台を指します。

「豪華な空間」で説明が行われると、パフォーマーも「金持ちだろう」と人は推測する傾向があります。

■2つ目は「見かけ」です。
「パフォーマーの社会的地位を即時に伝達する機能を果たす刺激として理解できるだろう」
(P47)と書かれています。「高そうな服」を着ていると「金持ちだろう」と推測する傾向があるようなことです。

■3つ目は「言葉遣いや身のこなし」です。
つまりマナーを指します。「パフォーマーがその先の時点における状況の中で演じようとしている相互行為のなかで役割を予告する機能を備えた刺激を指すものとして理解できるだろう」(P48)と書かれています。「礼儀正しい話し方」をしていると「品のある人だ」と推測する傾向があるという話です。

[基本] 外面:よい印象の「ステレオタイプ」

外面が示す一般的な情報の内容

多くのサービス業種では、パフォーマーの「外面」は一般的に「清潔さ」「現代性」「能力」「誠実さ」を演出することを目的としています。

オーディエンスの側では、たくさんある職業の個別の外面を理解することはできないから、「清潔さ」「現代性」「能力」「誠実さ」などをある程度「ステレオタイプ」化、たとえば「清潔さを表す典型的な外面」にすることで「すぐに理解できる」ようにして、コミュニケーションの能力の手間を省く(縮減する)ようにしている。

たとえば、ロンドンでは近年、煙突掃除人や香水店の店員が実験室用の白衣を着用する傾向にあるが、この新しい慣行は顧客に、そうした人たちが携わる業務は繊細で心遣いを要するものであり、標準化され、臨床的で、プライバシーを大切にするやり方でとりおこなわれているという理解を与えがちである。

『日常生活における自己提示』第一章 P51

つまり、香水店の店員が白衣を着ているのは「繊細で心遣いを要して」「臨床的で」「プライバシーを大切にする」印象を与えるためだ。実際には香水店の店員が「そのような行動をするかどうか」は関係がない。

[基本] 演劇化:オーバーリアクションをして「見える化」をする

演劇化:強調して伝えることで「見える化」する

パフォーマーは「不明瞭で曖昧な状況に置かれない」ために自分の行為に「劇的に強調し際立たせる記号」を注ぎ込みます。普通に伝えても伝わらないことの方が多く、ちょっと芝居がかって演劇的に言うほうが効果的な場合が多いという話です。

「野球の審判が判定に自信があるという印象を与えようとするなら、自分の判定が確かだと思ったその瞬間を逃してはいけない。一瞬のうちに判定を下し、観客にその判定に自信があると信じさせなければならない。」(P57)ということです。

行為が「見える仕事」と「見えない仕事」

行為が「見える化」されていないと、オーディエンスの評価が逆転する場合があります。ゴフマンは病院の「外科の看護師」と「内科の看護師」の例を挙げて説明しています。

外科の看護師は「何をやっているかが目に見える」作業をしているので、患者や患者の家族に「尊敬されやすい」けど、内科の看護師は脈を取ったり、呼吸の様子を観察したり「何をやってるかよくわからない」ので、患者や患者の家族には「適当に仕事をしている」「さぼってる」と思われる傾向があるようです。

なので、仕事の内容とは関係なく、「見えている部分」でしか判断されないのだから、「見える化」を行うことで、スムーズに物事は進むということができます。ゴフマンはアダム・スミスの『道徳感情論』から引用しています。

彼の風采、態度、行儀のすべてが、(中略)優雅で上品な優越感を表す。これが、人間をできるだけ容易に彼の権威に服従させ、彼らの好みを彼自身の都合に従って支配しようと企てる際に用いた策略なのである。身分と卓越に支えられたこのような策略は、通常の場合なら、この世を統治するのに十分である。」(アダム・スミス『道徳感情論』より)

『日常生活における自己提示』第一章 P62

[基本] 「理想化した自分」を「見える化」する

パフォーマーは「理想化した自分」を見せる

パフォーマーが「自分をよく見せたい」のは、パフォーマーが「ちゃんと社会を理解しているか」「社会から期待されていることが分かっているか」を見せたいからです。

なのでパフォーマンスで表現されるものは、「理想的な価値」=「自分がいる社会で公式に認定されている諸価値」を表すことになります。つまり、みんなが「道徳的にそうありたい人間」だと思うものを「見える化したい」と考えているということです。

これはコミュニティの道徳的価値を再確認する「儀式」だ!とゴフマンは言います。

[基本] 「よく見せる」ために隠すこと

「よく見せる」ために隠すこと

自分を「よく見せる」ためには、「印象が変わってしまう情報」は伝えません。「めっちゃ頑張って作業した」とか「政治的にうまく調整して実現した」などの情報は「隠して」おくのが普通です。

図の「隠していること5」は他の4つと異なり隠している事自体ではなく行為の優先順位の結果隠さざるを得ないという話です。「サービスの速さ」と「サービスの質」を要求されるとき、「サービスの速さ」を隠すことはできないけど「サービスの質」は隠すことができるから、「サービスの質」を隠して「サービスの速さ」を優先するという話です。

[基本] 「人間的な自己」と「社会的な自己」

「人間的な自己」と「社会化された自己」

意識して「理想化した自分」を伝えるのは、どうしても「理想化していない自分」が出てきてしまうことがあるからです。自然のままだと「人間的な自己」が出てきて、「あくび」をしたり、「相手が傷つくまで笑ったり」「関心を示さなかったり」します。

だから、「意図されないしぐさ」を行わないように「自分の行為を統制」、つまり「隠し」つつ、「熟慮に基づいてお芝居」をして「社会化された自己」を表現します。
そうすることで、
●パフォーマーはオーディエンスに、意識して間違えないように「期待されていること」を伝える
●オーディエンスは「パフォーマーへの期待」に満足する

ことで円滑に物事が進みます。

マナーの仮面は社会的な訓練を通じて、人の内側からそのあるべきところに装着されるだろう。しかし、シモーヌ・ド・ボーヴォワールも指摘するとおり、私たちはそうした姿態を保ち続けるために、身体をじかに補正し統制する締め具の助けを借りる。(中略)コルセット、ブラジャー、毛染め、メイクが体と顔を変えて見せるだけではない。まったく垢抜けない女でも、ひとたび「着飾る」と、それと気づかれないのだ。

『日常生活における自己呈示』 第一章 P97

人間は「社会的な自己」を「社会的な訓練」により内面化していきますが、内側だけではなく、外側も補正していきます。

[基本] 神秘化:社会的距離が遠い存在

接触が規制されると「神秘化」されやすい

「隠す」ことが多いことは、接触が少なくなることとも関係してくるとゴフマンは言います。「接触が統制」されるようになると、その人は神秘化されるようになると言います。

国王は市民から「親しまれる存在」になると、権威が低下するため、わざと「社会的距離を遠く」することで「神秘化」し、市民が国王に畏怖するような雰囲気を作って権力を生み出します。

権威を持つ者が「神秘化」して、市民に「言う事をきかせる」ことにより、社会の秩序を維持することができるとも言えるでしょう。

これはまさに、マックス・ウェーバー(1864-1920)の言う「支配の三類型」伝統的支配」「合法的支配」「カリスマ的支配「カリスマ的支配」に該当する話です。ウェーバーが言う「支配」とは「人が自ら進んで服従する」ことを言い、「カリスマ的支配」とは、「カリスマ性を持った人の言うことを自ら進んで聞く」という支配の一つの形です。

「秘密」を持っていることが「神秘化」を招きますが、実は「秘密なんてない!」というのが実情で、「秘密がないことを隠す」ことが最も大切になります。

オーディエンスはパフォーマンスの背後に秘め隠された謎と力を感じ取り、いっぽうパフォーマーの方は、自分の主だった秘密はたいしたものではないと感じている。数しれない民話や通過儀礼が示すように、神秘的な謎の背後にある真の秘密とはしばしば、じつは謎などないということなのであり、したがって真の課題は、オーディエンスにこの事実を知られないようにすることなのである。

『日常生活における自己呈示』第一章 P116

[基本] 人は「リアル」より「リアリティ」を実現しようとする

本物と人為的のパフォーマンスの違いはあるか?

ここは厳しいことを話している部分で、「本物のパフォーマンス」と「人為的なパフォーマンス」の違いなんて、結局わからないということを言っています。

というのも、見かけと実態の間には統計的な関係、「たまたま一致しているかもしれない」くらいしか理解できないということです。

また、私たちの日常の社会的相互行為そのものが、「演劇的に誇張された行為」と「それに対して終結を示す返答」の交換で成立しているから、実態がどうなっているかについては詮索されない。

だから、本物か人為的かを問うても意味はないということになります。
そして、第一章「パフォーマンス」の最後に結論として「リアル」より「リアリティ」を重視するという話をします。

リアルよりリアリティを重視する

「本物になろうとしている現実」について私たちは事前に訓練することで「予期社会化」を学びます。

さらに「本物」と「人為的」の違いを詮索できないので、「意図しないしぐさ」などが含まれる「リアル」より、「自分が生活している社会」に結びつけられた「行動」と「見かけの基準」という「リアリティ」を実現ようとしていきます。

その結果、地位や社会的立場にふさわしい「一貫した態度・見かけ」などで、自分とは「明らかに違う社会的立場」であることを表明することで、秩序を維持できるようになるということです。

[チーム] パフォーマーはチームで考える方が一般的

パフォーマーはチームで考える方が一般的

サービスを受けるという立場の「オーディエンス」を想像した場合、多くの場合はパフォーマーはチームとなっていることが多いです。患者として病院に行くときは、「受付」「医師」「看護師」「技師」のように、細分化された仕事のメンバーとやりとりをします。

なので、ゴフマンは個人としてのパフォーマーではなく、チームとしてのパフォーマーとして考える方が一般的に理解できるというので、今後はチームとしてのパフォーマーを想定して話をすると言っています。

[チーム] チームメンバーの条件

チームメンバーの条件

チームメンバーは、パフォーマンスを実行するにあたり、お互いが重要なメンバーであると認識する関係だといいます。そのためには2つの条件があると言います。

ひとつ目の条件は、合唱などでは、一人だけ音を外したりすると、全体の印象が崩れてしまうので、そうならないようにお互いに気配りをして失敗しないように「相互依存する関係」です。

2つ目の条件は、オーディエンスに伝える必要のない「隠し事を共有する」ことです。隠し事を共有すると、メンバーは一体感を感じる傾向があります。

[チーム] 「外面の維持」担当と「職務の遂行」担当

「職務の遂行」を担う人と「外面の維持」を担う人

チーム内でも役割分担があり、オーディエンスに印象を与えるための「外面の維持」と本来の「業務の遂行」を行うことは難しいため、「外面の維持」の専用部隊が登場します。企業の部署で言うと「広報部」ですが、その広報のキャラクターになる存在が「外面の維持」の担当でしょう。

CMやポスターなどに俳優が登場したりしますが、まさに俳優が「外面の維持」を行う人で、それ以外のことはほぼ関心がないと言えるでしょう。企業のイメージシンボルとしての俳優が世の中にいますが、企業の「業務の内容」とは基本的にはまったく関係がありません。

製品のデザインなども、イメージチェンジを行う場合は、社内の「業務の遂行」を行う担当の人ではなく、外部のデザイン会社に依頼することで、その企業(チーム)の新しい「外面」を生み出したりします。

[領域] 表領域と裏領域

表領域と裏領域

次は、空間的に「パフォーマーの相互行為」が変わる話をします。この内容はアルバイトや仕事をしたことがある人であればすぐに理解できるし、「そうそう」と思う内容です。今の企業は図の割合とは違いますが、「ミーティングエリア」と「オフィスエリア」という区別になるでしょう。

お客さん(オーディエンス)が来るスペースが「表領域」で、オーディエンスが来ないスペースを「裏領域」とゴフマンは呼んでいます。

それぞれのスペースの役割を詳細に分析したのが第三章の「領域とそこでの行動」となります。

[領域] 表領域:要請される2つのこと -ポライトネスと行儀作法-

表領域で要請される2つのこと

表領域では、どのような振る舞いが要請されるかというのは、既にこれまで書いてきた「良い印象」を生み出すための行為ですが、ゴフマンは「敬意表現」「行儀作法」の2つが義務として要請されると言います。

ひとつ目は「敬意表現」でこれは店員とお客さんとのコミュニケーションのときの「ポライトネス」のことを指します。

2つ目は、対面でコミュニケーションしていないときに要請される「行儀作法」です。

「行儀作法」はさらに2つに分類され、「道徳的な要請」と「用具的な要請」に分けられます。「道徳的」な要請とは、「笑顔を絶やさない」とか「ガムを噛んだりしない」とかを指し、「用具的な要請」とは、「場所にふさわしい衣服や髪型」をすることを指します。

ブティックの店頭で働く女性店員は、立ったままの姿勢でたえず周囲に気をくばり、チューインガムを噛むことなど許されず、だれとも話していないときにも笑顔を絶やさず、苦労して買った高価な服を着用することを求められるだろう。

『日常生活における自己呈示』 第三章 P174-5

[領域] 裏領域

裏領域で行われるていること

「裏領域」はオーディエンスが立ち入らない場所、つまりSTAFF ONLYの場所なので、パフォーマンスの準備をしたりする空間となります。

表領域が時間によって、「上流階級向け」のパフォーマンスをするときは、「中流階級向け」の酒や衣装は裏領域に片付けておくことになるし、化粧やパフォーマンスの準備などをする場所となります。

それ以外にも、方言を話すエリアの場合、表領域では標準語だけど、裏領域では地元の方言で話をしたりするなどもあります。

また、日常で当たり前のように見られる風景なので、特段指摘する必要もないと思いますが、裏領域では、表領域のお客さんの悪口などが交わされる舞台にもなります。この点については、コラムでは省略しますが、第五章の「役柄から外れたコミュニケーション」で解説されています。

たとえば、サービス業では、パフォーマンス中には丁重に取り扱われる顧客が、パフォーマーが舞台裏にいるときにはしばしば笑い者にされ、うわさ話の対象になり、劇画化して描画され、悪態をつかれ批判される。また、そこでは客に何かを「売りこん」だり、かれらに対する「戦略」をたてたり、なだめすかしたりするための策が練られるだろう。

『日常生活における自己呈示』 第五章 P268

[領域] 外部:第三の領域

第三の領域=外部

施設内、つまり学校や会社などでは、パフォーマーとオーディエンスの関係が存在するが、施設の外の人、つまり「部外者」との接触は「施設内で自分に期待されている行動」とは違う行動をしたい場合に必要となります。

もちろん「部外者」がオーディエンスになる可能性もありますが、会社や学校とは全く関係がない、「地元の友人」「趣味仲間」のようなコミュニケーションもあります。その場合は「自分をよく見せる」目的が異なってくるため、別のコミュニティのグループで行動します。「ほんとうの自分」がここにあるかもしれないという期待とともに。

フランス系カナダ人の司祭のなかには、友人とビーチへ泳ぎに行くこともできないほど規律を厳守する生活をしたいとは思ってはいないが、にもかかわらず、ビーチで求められる気の置けない関係教区での職務に必要な距離や敬意とは相容れないという理由で、自分の教区の信徒でない人たちと泳ぐのが最善だと感じている人がいる。

『日常生活における自己呈示』第三章 P216

会社では「超真面目なエリートサラリーマン」だけど、「昔のやんちゃ仲間」と遊ぶときは、会社での振る舞いは消して、「昔のやんちゃでいたい!」と思います。外部はそのような「今の自分の行動の統制から解放してくれる」ような場所です。いま風に言うと「プライベートな時間」ということです。

個人的には良いとか悪いとかの価値判断に関してはわかりませんが、商品企画をするという立場において、現代社会の把握においては、この「外部領域での活動」が重要だと感じています。

[印象管理] パフォーマンスの事故を回避すること

パフォーマンスの事故とは

「印象管理」とは「パフォーマーの事故」を回避する方法のことを指します。

「パフォーマーの事故」とは何かというと、
●意図されないしぐさ
●間の悪い侵入
●しくじり
●騒ぎ

を指します。つまり、オーディエンスに対して「チームが伝えたい印象」を台無しにする行為で、これらが発生しないように事前に対策をしておきましょう。という話です。

ここで「印象管理」という言葉について補足しておきます。以前の翻訳「行為と演技」(石黒 毅訳/誠信書房/1974)では、impression managementを「印象操作」と翻訳されたことで悪い印象を受けることになったと思いますが、impression managementは「相手を操作して騙す」という意味で使っていません

以前の初訳で採られた「印象操作」という訳語は社会学や心理学の分野で定着し、さらに一般化するとともにゴフマンの原義から離れたかたちで独り歩きし、国会での答弁にまで使われるようになった。(中略)managerは通常、支配人や管理人、監督などと訳される。ゴフマンの演技論の視座によるなら、人はほとんど例外なく、自分の印象の管理人なのである。

『日常生活における自己呈示』訳者あとがきに代えて 中河信俊  P445

[印象管理] 3つの方法

印象管理の3つの措置

印象管理には大きく分けて3つの方法があります。
●パフォーマーが行う「防御的な措置」
●オーディエンスが行う「保護的な措置」
●パフォーマーが行う「保護的な措置を受け入れる措置」

です。2番目の「保護的な措置」というのは、パフォーマンスが台無しにならないように、「オーディエンスも手助けする」ということです。

聞いている側もパフォーマンスを失敗させないようにするというのは驚きです。

しかし、よく考えると、医者や教員、説明員などが「言い間違え」などをしたときに、私たちは罵倒したりしないし、「○○ですよね」というように、言い間違えたことをさり気なく伝えたりすることを考えると普通のことです。

[印象管理] 技法1:パフォーマーの防御

印象管理の技法1:パフォーマーの防御

事故を避けるための、パフォーマーの事前対策は、
●チームに対して忠誠心を持つメンバーで構成する
●冷静で自己規律をもつメンバーで構成する
●情報を入手し、予定表を作ってリハーサルする

という、至極真っ当な対策です。

ポイントとしては、
●チームに不満があるメンバーを入れない
●自発的に動かないメンバーを入れない
●冷静に判断できないメンバーを入れない
●情報は事前に入手すること
●スケジュールを立ててそれを実行すること

です。

文字にすると簡単に見えますがメンバーに関するところが最も難しい。最初は頼りなかった人が次第に自発的に動くようになるし、最初冷静だった人が次第に感情的になったりして、まあ難しい。と思いつつも、パフォーマーの防御としては間違っていないと思います。

[印象管理] 技法2:オーディエンスの気配り

印象管理の技法2:オーディエンスの気配り

パフォーマンスが台無しにならないように、オーディエンス側も気配りをします。

ゴフマンの概念で有名な儀礼的無関心がここで登場します。「気配りをして無関心を装うエチケット」です。「儀礼的無関心」という言葉は出ていませんが、気まずくならないようにするための行為です。

その他、パフォーマーを否定したり、オーディエンスが「自分に関心を寄せてほしい!」という行動を抑えるように言っています。

[印象管理] 技法3:オーディエンスの気配りに対するパフォーマーの気配り

印象管理の技法3:気配りの気配り

基本的には「印象管理」はパフォーマー側が意識的にコントロールする行為なので、オーディエンスが助け舟を出してくれている場合は、それに注意しないといけないということです。

また、嘘をつく必要がある場合は、「明らかに嘘である」ことがわかるように冗談めかして伝えることで、オーディエンスに記号を伝えておく必要があります。

[印象管理] 理想的な自分を見せることにうんざりする

印象管理にうんざりする

ゴフマンは、第6章「印象管理の技法」の最後のあたりに、パフォーマーの「役割と本来の自分」について「恥ずかしく」なったり、「アンビバレントな感情を抱いたり」することを説明している。

正直な話をしたら「恥ずかしく」なったり、自分の行動を「偽善的」に感じたり、「相手が自分を出し抜いているんじゃないか」という不安を感じたりすることがあるけど、それもまた演出論的な諸要素の一部だと言っています。

ここはゴフマンが引用しているアメリカの大学の女子学生の文章を見たほうが理解しやすいです。

私はデートのときにときどき「少しばかなふりをしてみせる」けど、でも後味はよくない。気持ちは複雑。私のなかには、疑うことを知らない男を「出し抜いてひっかける」ことに喜びを感じる部分もある。でも、彼に対するこの優越感は、自分の偽善についての罪悪感と交ざりあっている。「デートの相手」には、彼が私の手管に「ひっかかっている」という理由でいくらか軽蔑したり、その人が好きなら、一種の母性的な優越感をおぼえたりする。(中略)おかしいのはね、男っていうのは、たぶん、いつでも無邪気に私を信じているわけじゃないということ。本当のことに感づいて、二人の関係のなかで不安になる。「ぼくの立場は何なんだろう?彼女、腹のなかでは笑っているんじゃないの。それともほめてくれたのは本気なの?本当にぼくのあのちょっとした話に関心したんだろうか、それとも、政治のことはなにもわからないってふりをしているのだけ?」そして、一度か二度、笑いものにされているのは私のほうじゃないかと思ったこともある。その子は、私の手練手管を見抜いて、私がそんな策略を弄していることを軽蔑しているんじゃないかって。

『日常生活における自己呈示』第六章 アメリカの大学の女子学生のコメント P369-70

そして、その悩みの答えは見つからない。

[結論] 道徳的な注記

第7章の「表出の役割は自己の印象を伝達することである」という箇所は、唯一「道徳的なコメント」が書かれています。

「道徳的な基準」を満たすことに関心があり、
道徳そのものには無関心

私たちが「伝えたい印象」というのは、「表領域」の項目で説明があったとおり、
●ポライトネス
●行儀作法

の2つでした。行儀作法には「道徳的な要請」「用具的な要請」がありました。人の印象は「道徳的な基準」が大きな要因を占めているから、与えたい印象は「道徳的な人物」であるということに尽きます。

しかし、「道徳的な基準」を満たせば「道徳的な人物」として印象を与えることができるから、「道徳的な基準」を満たすことばかり関心を持ち、「道徳」そのものには関心はありません。

人はパフォーマーとして、私たちが思っているよりずっと根が深いかたちで道徳の世界に居住している。しかしながら、パフォーマーとしての人は、そうした基準の体現という道徳的な問題にではなく、そうした基準が体現されつつあるという印象が信用されるようにうまく操作するという、道徳とは無縁な問題に関心をよせる。したがって、私たちの活動の大部分は道徳的な事柄と関わりがあるのだが、パフォーマーとしての私たちはそうした事柄に道徳的な関心を抱いていない。パフォーマーとしての私たちは道徳の商人なのである。

『日常生活における自己呈示』第七章 P392

本来は「道徳的な人物」でありたいと思うために「外面をコントロール」していたんだけど、「道徳そのもの」を考えるよりも、「道徳的な基準を充たす印象」を与える「ステレオタイプ」をマニュアルやハウツー本などで学ぶ方が労力もかからないし合理的だから、内容はよくわからないけど、「それをやっておけば間違いない」と考えるようになるということです。

おわりに

わたしたちの日常生活で、自分が人に伝えたい「印象」をコントロールしながら行動することは、多くの人にとって共感できる内容だったと思います。当たり前すぎて敢えて文章にしなくてもいいのではないか?と思う人もいると思いますが、体系的に整理すれば「社会のあり方」を理解できることは間違いないと思います。

個人的には、ゴフマンが紹介した「人々のやりとり」=「相互行為」の内容が、未来に向けた商品やサービスを企画するうえで、いまでも十分に有効なツールだと感じました。これらの相互行為は「子どもの頃から身についた」ものが多く、意識的に行っていないものもあるため、整理して考えると「生活が楽しく」なったり「より安心して生活」するためのアイデアを出すことができると思います。

服装や髪型、バッグ、メガネ、靴、電話などの持ち物、サービスを提供する空間などの「見た目」をデザインすることは、「経済的な差異」「文化的な差異」を選択して作り出すということになります。「ターゲット」を選ぶとはそのような意味です。おおよそのデザインは「ステレオタイプ」を汲み取ることで、クライアントが要求することを実現します。「ステレオタイプ」の基準を満たせば良いと考えるのも、思考を縮減し、時間を節約する効率的なデザイン手法ですが、基本に立ち戻って「道徳的な基準」を分析して、それに基づいたデザインを行うような取り組みを意識的に行うと、もっと楽しいものが作れそうな気がしました。

特に個人的に興味を持ったのが、「内科と外科の看護師」の話です。人は「作業が視覚化」されていないと、その作業の価値を低くみて、外科のように「何をやっているかが目に見えている」作業には「高い価値」をもたらすという話は、単に「見えていない・不明瞭」であることがその職業を「否定的」に捉えることに繋がるというのは、デザインで解決できる話だと思いました。

印象も「目に見える」ように「伝え」ないと、相手が理解できず、パフォーマンスもうまく実現できません。これは行動経済学の「自分の見たものがすべて」に該当する話で、弊社のデザインコンセプトである「見える化」が間違えていないことを改めて感じました。「見かけ」は「単なる形だけのスタイリング」ではなく「意思表明である」という「メッセージ性」を持つことを肝に命じて、コラムを終わりにしたいと思います。

著者について

tadashi torii
鳥居 斉 (とりい ただし)

1975年長崎生まれ。京都工芸繊維大学卒業、東京大学大学院修士課程修了、東京大学大学院博士課程単位取得退学。人間とモノとの関係性を重視した、製品の企画やデザイン・設計と、広報、営業などのサポートの業務を行っています。

2013年から株式会社トリイデザイン研究所代表取締役。芝浦工業大学デザイン工学部、東洋大学福祉社会デザイン学部非常勤講師。
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コラムでは製品を開発する上では切り離せない、経済学や社会学など、デザイナーの仕事とは関係なさそうなお話を取り上げています。しかし、経済学や社会学のお話は、デザインする商品は人が買ったり使ったりするという点では、深く関係していて、買ったり使ったりする動機などを考えた人々の論考はアイデアを整理したりするうえでとってもヒントになります。

また、私の理解が間違っている箇所がありましたら、教えていただけると嬉しいです。デザインで困ったことがありましたらぜひご相談ください。