オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』を読む [コラム017]

コラム第17回は、オルテガ・イ・ガセット(1883-1955)『大衆の反逆』(岩波文庫 2020/佐々木孝訳)を取り上げようと思います。以前にコラムで取り上げた『ディスタンクシオン』でも登場したオルテガに興味をもち、オルテガの代表作の『大衆の反逆』を読んでみたところ、個人的に「ふわっとしていた想い」を歯切れよく文章にしていた本として、「みんなで社会を作っていく」という、忘れやすいことを思い起こさせる本でしたので、取り上げたいと思いました。

内容を見ていく前に前提知識として、オルテガが『大衆の反逆』を書いた時代というのは、どのような時代だったのかを最初に振り返っておきます。
図のように、18世紀中旬頃に産業革命が始まり、科学技術の時代がやってきます。18世紀の末にはフランス革命が起こり、国王が支配する社会から、自由で民主的な社会へ移行しはじめます。
そうなると、人口は増加し、農村から都市へ人々が移動し働きます。次第に増加した人々が社会を作り上げていくようになりますが、20世紀になると社会主義やファシズムが誕生してきます。
『大衆の反逆』はこのような、社会主義やファシズムが台頭してくる1930年に書かれた本です。
オルテガは、自由な社会になって、科学技術で生活も豊かになったのに、独裁政権的な権力者が統治する社会が登場することに対して、なぜなのか?という疑問を抱きます。そして、それは「一気に増加した人々の考え」が原因ではないかと思うようになります。
では、それはどのような考えなのでしょうか?
それを説明しているのがこの本です。オルテガが提示する「多くの人々の考え」は現代のわたしたちの中に普通にある考え方で、100年近く前に書かれた本にもかかわらず、2025年の今読んでも違和感のない内容です。
個人的に思ったのは、この本は「みんなで生きていく社会をつくるための基本的な考え」を思い出させるための話だと思いました。日常生活を送ったり、仕事をしていたりすると、つい忘れがちになり、流されがちになる「考え方の基本コンセプト」の話として、『大衆の反逆』を読みました。このコラムでは、私が思った「みんなで生きていく社会をつくる」視点で、できるだけわかりやすく解説していきたいと思います。
もくじ
この本の構成

『大衆の反逆』は第一部「大衆の反逆」と、第二部「世界を支配しているのは誰か」の二部構成となっています。
第一部では、大衆の定義、なぜ大衆が登場するようになったのか?、大衆はどのような特性を持っている人々か?、大衆が国を統治するとどうなっていったのか?、などを解説しています。
第二部では、国を統治するとはどのようなことか?支配する目的や、歴史的にどのように支配が進められたのか?などを見ていき、現在の問題は何かを説明しています。
岩波文庫版の『大衆の反逆』には、本編の前に「フランス人のためのプロローグ」と本編の後に「イギリス人のためのエピローグ」が掲載されていますが、このコラムでは取り上げません。
[言葉の定義] オルテガの言う大衆と貴族について

本文を見ていく前に、オルテガが言う大衆や貴族という言葉について見ていきましょう。
オルテガは、大衆や貴族という言葉を、階級を示す言葉としては使っていません。大衆は庶民で、貴族は金持ちを指すような階級を指していません。人間性のことを指します。
なので、「経済的には庶民だけど、貴族的な精神を持つ」「経済的には金持だけど、大衆的な精神をもつ」という言い方ができる使い方をしています。
『大衆の反逆』では、大衆の定義や特性、貴族の定義や性質などが各所で登場するので、はじめにそれぞれがどのように本書で説明されているかをまとめてから、本文に進みたいとおもいます。なので、まず「大衆」から説明していきます。
[言葉の定義] オルテガの言う大衆

では、オルテガの言う大衆とはどのような存在なのでしょうか?
「我が身や自分の余暇のことだけをに気を配る人」、「自分たちの安楽ばかり考える人」「自分が優れていると自惚れている人」「共生は望んでなくて、意見が違う人を排除する人」「過去に対するの尊敬の念や関心を持ってない人」と言っています。
これは自分を振り返ると厳しい言葉です。自分のことばっかり考えてるときもあるし、今の自由を実現してくれた先人のことを忘れるときもある。
オルテガの大衆の定義で有名な箇所を引用します。
大衆とはおのれ自身を特別な理由によって評価せず、「みんなと同じ」であると感じても、そのことに苦しまず、他の人たちと自分は同じなのだと、むしろ満足している人たちのことを言う。
『大衆の反逆』P69
これを現在の社会で理解しようとするならば、LGBTに対する社会のルール作りをどうするか?などで、どのような意見を持つか、などに登場する話かと思いました。オールジェンダートイレなどの現時点では答えがない問題に対してどうするか?などを考えていくと見えてくるかもしれません。
自らに何ら特別な要求をせず、生きることも既存の自分の繰り返しにすぎず、自己完成の努力をせずに、波の間に間に浮標のように漂っている人である。
『大衆の反逆』P70
こちらは各個人の問題だけではなく、社会的に影響を受けている側面が強く、近代産業に適した人間を作る「規律化」させる近代的な教育との関係が大きい側面だと思います。
[言葉の定義] オルテガの言う貴族

では、オルテガが言う貴族とはどのような存在なのでしょう?
「自分に困難や義務を課す人」「自分を規範に合わせようとする人」「愚かにならないように努力する人」「共生を望む人」「他者を考慮する人」「意見の合わない人と共に行動する人」「過去から学ぶ人」ということになります。
基本は、「共生できる社会を実現するために行動する人」ということになりそうです。
私にとって貴族とは、常に自己超克しようと努力する生、あるいは既存の自己を超え出て、自らに義務や要求を課することへ向かう生のことである。
『大衆の反逆』P140
オルテガにとっての貴族とは、「共生の社会」を実現するために、誰からも頼まれていないのに自分に義務や要求を課す存在であると言えるでしょう。オルテガは、このような貴族的な人より大衆的な人がほとんどが社会を覆い尽くしたから、1930年頃のヨーロッパのファシズムや社会主義が流行したと言っています。

大衆と貴族の特性の違いですが、個人的には、ひとりの人間の中に両者が共存しているのが、現在の社会じゃないかと思いました。
オルテガの言う「大衆だけの人」「貴族だけの人」というのはあまり想像がつかなくて、どちらも自分の中にいて、場面によって使い分けているというのが率直な感じがします。
ただ、国家の「大きな方針」に対する自分の意思表明などを考えた場合、「大衆」になってしまうことが多々あると思います。オルテガはそのような意味で言っているのかと思いました。
[大衆の特徴] 大衆はなぜ誕生したのか?

なぜ、このような自己中心的な存在である大衆が増えてくることになったのでしょうか?オルテガは、まずゾンバルト(1863-1941)が示したデータを元に、人口が急激に増えたことを指摘します。
すなわち6世紀にヨーロッパの歴史が始まって1800年に至るまでの12世紀の長きにわたって、ヨーロッパの人口が一億八千万以上に達したことはない。ところが、1800年から1914年の間つまりわずか1世紀の間に、ヨーロッパの人口は一億八千万から何と四億六千万に上昇した!
『大衆の反逆』P118
人口が急激に増加したのは、「技術の進化」と「自由主義デモクラシー」であると続いて説明します。
技術が進化して、物質的に豊かになり、それが続くと人々は「豊かであることを当然の権利だと思うようになる」し、「過去の時代に比べて今の時代は優れていると自惚れ」るようになっていった。また、技術が進化すると、働き方も農業から工業に変わっていき、工場で働くために「身体を規律化」した人間を教育で作っていき、次第に「個性の剥奪」が行われていくようになり、「みんなと同じじゃないと変」という意識を強くしていきます。
「自由主義デモクラシー」は、社会的障壁をなくし、生まれながらの制限もなくなり、自由に生きていくことができるようにしました。これ自体は素晴らしいことだけど、その制度を作った過去の人々のことを忘れて「自由であることがあたりまえの自然のことだ!」「自分たちは何でもできる!」と傲慢になっていきます。
オルテガはこのようにして大衆は登場したといいます。しかし、国家や政府が計画的に大衆を作り出したわけではないので、避けることは難しそうな感じです。
「技術の進化」も「自由主義デモクラシー」も、それ自体は人々を制約から開放し、自由に生きることを実現してくれましたが、副作用もありということですね。また、それまで「自由に生きていなかった人々」が「自由に生きる」ことは実はとても難しいことなんじゃないかなと思ったりもします。それは自分を乗り越える「自己超克」をしていく必要があり、それは誰かがマニュアルで教えてくれるものでもなさそうだからです。
[大衆の特徴] 現在の平等や自由はあたりまえと思っている

生まれながらにして自由であり平等である人たちは、「自由に生きて」、「制限なく平等に生きる」ことができる社会を、空気や水のように自然のものと考えてしまっている、とオルテガは言う。
そうなると、自由や平等を実現した過去の人達のことなど、頭から抜け落ちてしまう。さらに、技術が進化し、以前よりも現在の方が優れていると思うと、過去に対する尊敬の念や関心が薄れてしまい、自惚れているのが大衆だと言い放つ。
以前は理想だったのに、それが現実化してしまうと、もはや理想ではないと。
気をつけていただきたいのは、かつては理想であったものが現実の要素となったときには、もはや皮肉なことに理想ではないということなのである。理想の属性でもあり人間に及ぼすその効果でもあった権威と魔力ともいうべき効力が、雲散霧消してしまうのだ。あの寛大で民主主義的な霊感から発した平等への権利は、熱望や理想でなくなり、欲求や無意識の前提へと変化してしまった。
『大衆の反逆』P81
[大衆の特徴] 大衆は甘やかされた子供だ

科学技術が進化し、社会的な制約がない自由な社会であることから、「なんでもできる」と勘違いする思いを漠然と持つ人が増えたということを言っている。
さらに、それらの状態が当たり前すぎる状態となってしまったため、そのような社会を実現した人たちのことを忘れてしまっている。それらはオルテガ曰く、「甘やかされた子供の真理として知られている特徴だ(P130)」と。
甘やかされた子供は、やりたいことは言うけど責任は果たさないと指摘する。
甘やかすとは、欲求を制限しないこと、自分にはすべてが許されており、何の義務も負わされていないと思わせることである。こうした生活様式に染まった人間は、自分の限界についての体験がない。周りからのあらゆる圧力を避け、他人との衝突をすべて避けようとするあまり、ついには自分だけが存在しているのだと本気で信ずるようになる。他人のことは意に介さない、とりわけ自分より優れた者などいないのだ、との思い込みに慣れてしまう。
『大衆の反逆』P130
無責任でやりたい放題という「甘やかされた子供の特徴」と「大衆の特徴」は一致し、オルテガは大衆が社会を統治するのは、責任感がないという点でも危険であると感じている。
[大衆の特徴] 排他的になりがちで暴力的

オルテガは最初の章「密集の事実」の最後(P74)に「そのおぞましさを隠すことなく描かれた、現代の残忍な事実」と締めくくっている直前に、他者を排除するという大衆の恐ろしい性質を書いています。
この話はミクロな視点の日常生活でも現れるし、マクロな視点のナショナリズムの文脈でも現れる。仲間、共同体という「閉じられた世界」と「外側の世界」の境界線がある限り登場する話だと思います。
オルテガは、かつての「みんな」は、多数者と少数者の複合的な統一体であったことを指摘します。
大衆は、みんなと違うもの、優れたもの、個性的なもの、資格のあるもの、選ばれたものをすべて踏みにじろうとする。みんなと同じでない者、みんなと同じように考えない者は、抹殺される危険に晒される。そしてもちろん、この場合の「みんな」は、本当の「みんな」ではない。かつての「みんな」は、大衆と、彼らと意見を異にする特別な少数者との複合的な統一体であった。しかし、今や「みんな」は、大衆だけを指している。
『大衆の反逆』P74
『大衆の反逆』がスペインで出版されたのは1930年なのに、まるでホロコーストを予測しているかのような書きぶりです。
[大衆の特徴] 専門しか知らない専門家なのに偉そうにする

それでは、大衆とはどのようなイメージでしょうか。オルテガは意外にも大衆を代表する職業として研究者や科学者などの知識人を挙げます。
それは特定の知識人などを指しているわけではなく、知識人自体が、社会的にそうならざるを得ないと言っている。科学が進んでいくと研究分野が細分化していき、細分化することで、研究者は「熱心に研究している極小部分しか知らない人間(P201)」になるからです。
なのに、何か大発見をすると「俺はなんでも知っている」的な顔をするから、オルテガからは大衆を代表していると感じるわけですね。
彼を専門家にするに当たって、文明は彼を自ら閉じこもり、自分の限界内で満足する人間に作り上げてしまった。しかしまさにその自律と自信の内的感覚そのものが、彼を自分の専門領域の外でも支配的位置に立ちたいという願望ももたらすのだ。結果として、彼は有資格の人間の最高点である専門性を持つものとして、つまり大衆化した人間の正反対を代表しながら、生活のほどんどあらゆる局面で無資格の大衆として振る舞うことになるだろう。
『大衆の反逆』P204
以上の指摘は机上の空論ではない。誰でもその気になれば、今日の政治、芸術、宗教、生や世界に関わる全般的な問題において、「科学者」を筆頭に医者、技術者、財界人、教授などがいかに愚かな考えを持ち、判断し、行動しているかについてつぶさに観察することができよう。これまで私が大衆の特徴として繰り返し紹介してきたこと、すなわち上位の要請に対して「聞く耳を持たない」、従わないという条件は、まさにこうした中途半端に資格を持っている人間において頂点に達している。彼らは現今の大衆の支配を象徴しており、かなりの部分で実際にもそれを構成しているのだ。そして、彼らの野蛮性はヨーロッパの退廃の最も直接の原因である。
ここは長く引用しましたが、オルテガは科学者を筆頭に知識人に対してものすごく怒っています。それは「自分たちは優れているから、社会からの問いかけは聞かない」という姿勢を取る人たちが多く、オルテガいわく原始的で野蛮である大衆の代表者であると言っています。
[貴族の特徴] 自分に困難や義務を課して秩序と法をつくる
オルテガは人間には2種類あるといいます。
人間に対して為され得る最も根本的な区別は次の二つである。一つは自らに多くを要求して困難や義務を課す人、もう一つは自らに何ら特別な要求をせず、生きることも既存の自分の繰り返しにすぎず、自己完成の努力をせずに、波の間に間に浮標のように漂っている人である。
『大衆の反逆』P69-70
と二つの人間の区別を行っています。後者はこれまでの説明から「大衆」を指し、前者を「貴族」と定義しています。ここでは「自らの多くを要求して困難や義務を課す人」である貴族について取り上げます。

オルテガの言う貴族は、最初に取り上げた通り、厳格で自らに厳しく、他人に対して奉仕し、共存を求めるような特徴を持ち、自己中心的な「大衆」とは真逆の人間です。
もっと具体的に考えてみると、かつての国家を作った人々をイメージするとわかりやすいのかもしれません。自由主義を実現した人々のことです。
それまでの当たり前だった国王による不自由な封建的な社会を変えていくには、それまでの自分の考え方を超えていかないといけないし、他の人々に理解してもらったり、協力してもらうには、自分から規範に従ったりしないと実現できないからです。
選ばれた人にとって、何か超越的なものに奉仕することに基づかないような生では、生きた気がしないのだ。だから彼は奉仕する必要性を抑圧とはみなさない。たとえば、たまたま彼に抑圧がないとしたら不安を感じ、もっと難しい、もっと要求の多い、自分を締め付けてくれる新たな規範を案出する。これが規律ある生、つまり高貴な生である。高貴さは、要請によって、つまり権利ではなく義務によって規定される。これこそ貴族の義務(Noblesse obliege)である。「好き勝手に生きること、これは平民の生き方だ。すなわち貴族とは秩序と法を希求する」(ゲーテ)。
『大衆の反逆』P137
『文明化の過程』で登場した、ルイ14世が絶対王政を実現するために、厳しいルールを作って自分にも課していたという話と同じです。社会に秩序がないと幸せになれない、ということを前提にしていると思いました。そのような秩序を生み出すルール(法)を作るのが貴族だということですね。
[社会を作る] 支配とは坐ること
ここからは第二部の「世界を支配しているのは誰か」を取り上げます。第二部では、「大衆」による成り行き任せで自己中心的な統治ではなく、オルテガが考える統治、支配について見ていきます。

「世論が、人間社会の中で支配という現象を作り出す根源的な力だという事実(P226)」だと言うように、オルテガは、支配を作り出すのは世論だと言っています。
では、支配者の仕事は何か?というと、椅子に座って話を聞くことです。人々の意見である世論を聞いて、それに対してアドバイスするイメージだと思います。決して暴力で敵を叩きのめすというようなことではなさそうです。
オルテガは続いて支配者が座っていた椅子を紹介します。
要するに、支配するとは坐ることである。玉座、古代ローマの大官用の椅子、スペイン議会の大臣席、各省大臣の椅子、司教座などはすべてが坐るものだ。無邪気でメロドラマ的な視点で推定することとは反対に、支配するとは拳骨の問題というよりむしろ腰を下ろす問題なのだ。国家とは、詰まるところ意見の状態、一つの均衡状態であり、静態なのである。
『大衆の反逆』P227
[社会を作る] 支配と服従

「統治」だったり「支配」だったりする「強めの言葉」が続きますが、ここは要するに「秩序ある社会」を成立させる要因などについて書いています。
さすがに、決断者が不在で、中心がない社会は存在できないので、「支配」と「服従」の二つが存在することを書いています。「服従」というとどうしても「服従しなければならない」というような意味合いを持った言葉かと私は感じてしまうのですが、「支配は坐ること」と言っているオルテガは「服従」に関しても、私がイメージする意味では使っていません。
「創造的な生」を生きるために支配者も服従者も共同で「ある歴史的な大きな運命」、つまり「国家を作る」などに取り組むということです。そのためには、支配者が先ず動いて、そこから服従者が動くという流れに成るという話をしています。
創造的な生は、高度な精神衛生の状態と大いなる品格、そして尊厳の意識を駆り立てる不断の刺激というったものを要求する。創造的な生とはエネルギッシュな生である。それは以下の二つの状況のいずれかにおいてのみ可能なのだ。すなわち自身が支配する者であるか、あるいは支配の権利を存分に認められた者が支配する世界に生きるか、この二つのいずれか、つまり支配か服従かである。しかし服従することは、我慢して品位を落とすことではなく、むしろその反対に支配する者を尊敬し、命ずる者と連帯しながら、また戦意高揚の中はためく旗の下に馳せ参じることなのだ。
『大衆の反逆』P253
[社会を作る] 共生する=血縁関係から離れた集団をつくる
ここまで見てきたら、もうお分かりだと思いますが、オルテガは「議論し合って」「構成するメンバー」で集団を作っていくことが、安定した集団を作れると言っています。そして、特に重要なのが、その集団は血で繋がった血縁集団ではなく、まったく関係ない他人たちと一緒に共存することが重要だと言っています。
もう一度繰り返そう。私たちが国家と呼ぶ現実は、血の同一性によって結びつけられた人間たちの、自然発生的な共存などではないのだ。生まれつき分離していた集団が存在を義務付けられるときに、国家が始まる。この義務はむき出しの暴力ではなく、ばらばらの集団に課された共通の仕事が、一つの計画の始まりだと想定される。
『大衆の反逆』P279

そのような集団(国家)は、「受動的であると同時に能動的主体」でもあり、各個人が「主体、参加者、協力者」という役割分担を自覚し、「他の集団に参加を呼びかけたり」するような、さらなる他者を巻き込んでいき、「共同生活を組織化する」ことで進む取り組みだと言っています。
オルテガは支配者や服従者は「やることがなくなるとトーンダウンしてしまう」から、「私たちが昨日こうあったということではなく、共に明日やろうとすることが、私たちを国家に結びつける(P292)」ことで、秩序ある国家が継続し、それは必ず必要なことだ言っています。これがオルテガが想定する秩序ある国家(集団)の姿です。
[まとめ] モラルが欠けている大衆が統治すると秩序は崩壊する

最終章の「真の問題に辿り着く」は、そもそも大衆は貴族の特徴だった「何ものかに対する恭順の念や奉仕と義務の意識」であるモラルを持っていないのが、ヨーロッパの問題だ、という結論で終わります。
つまり、無責任で「やりたいことを自由にやっている」ような生き方をしていたら、国の統治などにも興味がないし、ただ「波の間に間に浮標のように漂っている」ように過ごしていると、いつの間にか、好き勝手やる人に飲み込まれてしまっていき、排除されていってしまう。
だからオルテガは貴族としての生き方を提示していき、それに気づいてほしいと思い、この本を書いたのだと思いました。
おわりに
『大衆の反逆』という言葉は、近代以前の封建的な社会に対して、近代以後は技術の発展や自由主義イデオロギーの台頭で、急速な人口増加により登場した「大衆」が国家を統治するという意味で「反逆」という言葉が使われています。
せっかく封建国家から「大衆」が主人公の「大衆の反逆の時代」になったのに、いざ主人公になったら、「無責任」で「成り行き任せ」で、「法律がどう言おうとも、みんながそれでOKならOK」的に、過去に「人間がどうあるべきかを真剣に考えてつくった法律」をちゃんと吟味せず、今の時代は過去よりも優れてるからと自惚れて、多数決で決めることが正しい、と考えてしまうようになった。
このようになると、ただ単にマーケティングが上手で、大衆が喜ぶようなことをスピーチする政治家に流されるようになりやすくなり、オルテガは危険だと警告していたが、現実はオルテガの言う通り、ファシズムであったり、ホロコーストが発生してしまう原始的で野蛮な社会となってしまった。
政治学者の中島岳志(1975-)さんの『NHK「100分de名著」ブックスオルテガ 大衆の反逆―真のリベラルを取り戻せ』(NHK出版 2022)にはこう書かれています。
それまで私の中にずっと引っかかっていたのは、「民主主義と立憲主義」の問題でした。法学上、あるいは政治学上も、この二つは相反するというのが基本的な考え方です。民主主義とは最終的に多数派によって決定される政治システムのことです。一方、立憲主義とは、憲法が権力を縛る、つまり「多数派の支持を得たとしても、してはいけないことがある」という考え方です。仮に多数派が「言論を規制しろ」と主張したとしても、言論の自由は憲法で保証されているのだから、規制をすべきではない、ということです。
『NHK「100分de名著」ブックスオルテガ 大衆の反逆―真のリベラルを取り戻せ』P100-101
(中略)
しかし、今の日本には、自分は多数派に支持されているのだから何をしてもいいのだ、白紙委任されているのだと主張する政治家が少なくありません。そのように、立憲主義を忘れた民主主義、つまり多数者の見解だけによって正しい進歩が成し遂げられるという傲慢な発想こそが民主政を危うくするというのが、オルテガの思想なのです。
どうしても、議論が長引いて「議論にけりをつけたい」ときに、最後に多数決で決めるということをしてしまいがちです。そのようにならないように、議論にはメリットやデメリットを整理した上で、「その決断は未来を楽しくする、明るくする」という目的を実現できるような選択肢を取らなければ、あとで後悔することになってしまう、ということを強く心に持っておきたいと感じました。
これは国家の政治という大きな話だけでなく、日々の仕事や生活において、私の場合はデザインをすることの中で再確認をし続けていかなければならないと、自戒していきたいと思います。
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著者について

鳥居 斉 (とりい ただし)
1975年長崎生まれ。京都工芸繊維大学卒業、東京大学大学院修士課程修了、東京大学大学院博士課程単位取得退学。人間とモノとの関係性を重視した、製品の企画やデザイン・設計と、広報、営業などのサポートの業務を行っています。
2013年から株式会社トリイデザイン研究所代表取締役。芝浦工業大学デザイン工学部、東洋大学福祉社会デザイン学部非常勤講師。
詳しくはこちら
コラムでは製品を開発する上では切り離せない、経済学や社会学など、デザイナーの仕事とは関係なさそうなお話を取り上げています。しかし、経済学や社会学のお話は、デザインする商品は人が買ったり使ったりするという点では、深く関係していて、買ったり使ったりする動機などを考えた人々の論考はアイデアを整理したりするうえでとってもヒントになります。
また、私の理解が間違っている箇所がありましたら、教えていただけると嬉しいです。デザインで困ったことがありましたらぜひご相談ください。
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