オルテガ・イ・ガセット『芸術の非人間化』を読む [コラム018]

コラム第18回目は、17回目に引き続いてオルテガ・イ・ガセット(1883-1955)を取り上げたいと思います。今回はちょうど100年前の1925年に書かれた『芸術の非人間化』(オルテガ著作集3 芸術論 白水社 1998/ 神吉敬三訳)(英名:The dehumanization of art)という、現代芸術の意図するところをオルテガの視点から捕らえたエッセイについて、個人的に理解した点を見ていきたいと思います。

第15回のコラム、ブルデューの『ディスタンクシオン』の美的性向は階級によって違いがあるという話のとき、『オルテガ・イ・ガセットを読みさせすれば、天賦の才能というカリスマ的イデオロギーが、現代芸術という「本質的に非大衆的な、そればかりか反大衆的でさえある」芸術のなかで、またこの芸術が人々を「理解できる者と理解できない者」という二つの「対立する」「階層」に分けることで生み出す「奇妙な社会学的効果」のなかで、どれほど強化されているかすべて見えてくる。』(「ディスタンクシオン1」P62)
というように、オルテガの『芸術の非人間化』を参照して、現代美術が階層を分けるという内容が書かれていました。
いわゆる現代美術は、私たちが子どもの頃に教えてもらった「美術」のイメージからはかけ離れていて、絵を見ても何が描かれているかわからないし、彫刻も単なる鉄の板だったり、四角いコンクリートの塊だったりしていて、一体何なんだ?と思う人も多いと思います。私も最初は全く理解できませんでした。ただ次第に、オルテガがこの本で説明している「窓の比喩」の話のように訓練していけば「それが何かは理解できる」ようになります。おそらくですが、そもそも現代美術に興味を持たないと理解しようと思わないので、興味を持つか、持たないかで社会的に対立する階層を生み出すというのが正解なのかと思います。
では、オルテガは『芸術の非人間化』で何を言おうとしたのでしょうか。オルテガは「新芸術からその基本的原理を抽出(P42)」「私が新芸術から抽き出そうとしたものは、最も興味があるその意図(P90)」を伝えかったと言っているので、このコラムではオルテガが言う「現代芸術の基本原理と意図」をできるだけわかりやすく解説したいと思います。
もくじ
この本の構成

『芸術の非人間化』は50ページ程度の短いエッセイです。しかし短い中に様々なことが詰め込まれているので、整理して読まないとよくわからなくなると思います。
あくまでも個人的な見解にすぎませんが、おおよそ図のように展開していきます。最初に「新芸術は評判が悪い」という話題から始まり、「その新芸術(現代芸術)の特徴は非人間化している」と指摘します。次にその「現代芸術を構成している基本要素」の話をしたのち、「非人間化するための具体的テクニック」の説明をしてから、「なぜ現代芸術は非人間化したのか?」という理由の見解を示します。
最後に「まとめ」がありますが、特に「芸術、この重要たらざるもの」に関しては、それまでのページでは現代芸術に対してそれほど否定的でなかったオルテガは、「現代芸術は、過去を振り返らないし、スポーツと同様に人気を得たいだけ」的な評価を下します。この部分は前回コラムで書いた『大衆の反逆』での「大衆」の特徴そのもので、まるで「芸術家は専門家で大衆の代表的な存在だ」と言わんばかりで、矛盾した印象を受けるので、ちょっと混乱してしまう最後となりますが、一番最後には「新芸術に親愛感を抱いていた(P90)」とも書いているので、どう評価したらいいかを決めかねているという感じでしょうか。
この点に関しては、美学研究者である小田部 胤久(1958-)氏の『人間的芸術の行方』(美学藝術学研究20 P127)で「首尾一貫していない点が認められる」と書かれており、興味を持たれた方はぜひ読んでみてください。
また、「隠喩」を説明しているあたりは詩に関する話で、詩については全く知識がないため、具体的に掴むことができなかったので、省略しました。
それではスタートの「新芸術(現代芸術)は評判が悪い」点を指摘するところから見ていきましょう。
現代芸術は評判が悪い

オルテガはドビュッシーから始まる新しい音楽の時代について文章を書いたときに、新しい音楽と伝統音楽の違いについて定義しようとした際、「新しい音楽の不人気」という現象から説明するのが理解しやすいといいます。
19世紀のロマン派の芸術と比較したときに、ロマン派の芸術は民衆様式で、最初は評判が悪かったが、その後は人気となるのに対し、現代芸術は多くの人が「中身が理解できない」からそもそも評価ができず、それが故に評判が悪いという。
ここに大衆が新芸術に対して憤りを感ずる原因があるのである。ある芸術作品に接して、嫌いだが理解はしたという場合、人はその作品に対して優越感を持つから、憤りを感じはしない。ところが、その作品に対する嫌悪感が、作品を理解しえないところに由来する場合、人は侮辱されたような気になり、漠然とした劣等感を抱くのであり、作品に向かって憤激をぶちまけることによって逆に自己を肯定するという形で、そうした劣等感をいやす必要があるのである。
『芸術の非人間化』P40
なぜ現代芸術は敢えて「理解できない作品」を作るのでしょうか?
現代芸術は「理解できる人」と「理解できない人」に人間を分ける

「中身が理解できない」から現代芸術は評判が悪いといってしましたが、それは社会学的に何を意味するかといえば、社会を「芸術を理解できる人」と「芸術を理解できない人」の2種類の人種に分けるといっています。
ブルデューも象徴闘争に使う武器として「美的性向」を挙げていましたが、この「芸術を理解できる」という武器で象徴闘争を戦うということになります。
「理解できる」少数者と「理解できない」多数派、つまり大衆に分割されるといいます。それまでのロマン派芸術は「大衆」の方を向いていた作品を作っていたから、オルテガ曰く「現代芸術が罰を受けるのは当然である」と言っています。
新芸術は、善良な小市民の前に姿を見せるだけで、彼らに、自分はまさに小市民そのもの、芸術的秘跡を受けることもなければ、あらゆる純粋美に対して盲目であり聾である小市民であることを、否応なく自覚させるのである。ところで、百年間にわたって終始一貫大衆にへつらい、「民衆」を賛美してきた後でこうしたことをやれば、それなりの罰を受けるのは当然である。
『芸術の非人間化』P40
それまで大衆のために創作していた芸術家は、なぜ大衆に向けて作らなくなったのか?芸術家は「大衆」と「選別された者」を分けて、自分がその「選別された者」になりたかったら、そのような作品を作っているのでしょうか?次は、その疑問をについて見ていきましょう。
大多数の人にとって美的快感とは?
そもそも芸術を見るときの楽しみや喜びのような「美的快感」「美的性向」とは一体何なのか?というところから探っていきましょう。最初に「大多数の人」にとっての美的快感から見ていきます。

大多数の人にとって芸術を見たときの「美的快感」とは何か?、つまり「大多数の人はどのような芸術を好むのか?」ということを、オルテガはまず整理しています。
結論としては「ドラマチックな運命がある物語」ということになります。演劇なら「登場人物の愛、憎しみ、悲しみ、喜びに心を動か」される作品などは人気となります。絵画などでは、人間が描かれた絵だったり、風景が描かれた絵だったりします。
それらには必ず「人間の姿と人間の感情」が描かれている必要があります。実はこれは今でも変わらないのではないでしょうか。
彼らにとって芸術とは、興味深い人間的な事象との接触を可能にしてくれる諸手段の総体なのである。真に芸術的なフォルムや非現実性や想像力の介入も、彼らが人間の姿とその有為転変を明確に感じ取るうえに妨げにならない範囲内でのみ認めるわけである。そしてひとたびそうした純粋に美的な要素が優位を占め、太郎や花子の物語が十分に捉えられなくなるととたんに、彼らはわけがわからなくなり、舞台であれ、小説であれ、絵画であれ、それを前にどうしてよいかわからなくなってしまうのである。
『芸術の非人間化』P43
つまり、19世紀の芸術は「人間を描く・表現する」=「人間的事実」という他律的(絵画の技法などの自律的なもの以外のものに存在根拠を定める)な芸術であったと言っています。
真の美的快感とは?

それに対し芸術における「真の美的快感」とはなにか?ということをオルテガは「窓の比喩」を使って説明します。これがまた上手です。
窓ガラスから庭を見ると、ふつうは「庭の風景」に焦点を合わせます。それに対してオルテガは「窓ガラスに焦点を合わせよ」と言います。窓ガラスに焦点を合わせると「ガラスに貼り付けられたように混然とした色の塊だけに」なり、それが真の美的快感といいます。
そこに現れているものは「芸術的に透明なもの、純粋に潜在的な力があるだけだからである」ということです。
ところで、大多数の人々は、芸術作品という透明なガラスに、彼らの注目の焦点をあわせることができない。そして、そこに気づかずに素通りしてしまい、作品に暗示されている人間的現実に執着し熱狂するのである。彼らに対して、手中の獲物を手放して、芸術作品そのものに注目するようにすすめたとしても、彼らはそこには何も見えないと答えるだろう。事実、そこには人間的事象はなく、芸術的に透明なもの、純粋に潜在的な力があるだけだからである。
『芸術の非人間化』P43
これだけだとちょっと分かりづらいので、補足しておきます。つまり、絵画の場合だと「色や形」で表現することが主な役割です。描かれているものに「人間的現実」を排除すれば(非人間化すれば)、その絵画でしか表現できない「美しさ」だけを抽出することができるからです。
これを「庭の風景」を見た場合は「人間的現実」を見ることとなり、たとえば「庭で遊んでいる人の喜び」であったり「行ってみたいと思わせる快適さとか感情的な趣」とかを感じせることになり、それはその芸術家が描かなくても同じ効果を得られます。芸術である必要性もありません。オルテガが真の美的快感という現象は、芸術の自律性を示す色や形でしか実現できない純粋な美を表現しているということを言っていると思います。
現代芸術の7つの傾向

真の美的快感である「人間的現実」を消すことが、現代芸術の基本的な概念であることを確認した後に、オルテガは新芸術の7つの傾向をまとめています。
(1)芸術の非人間化
(2)生き物の形象の排除
(3)芸術作品をして芸術作品以外たらしめないようにする
(4)芸術を遊戯以外の何物でもないとみなす (P82)
(5)芸術の本質の一つをアイロニーとする (P82)
(6)にせ物をいっさい回避し、周到な制作を心がける
(7)若い芸術家たちは、芸術を、なんら超越的な価値を持たない自目的的なものと考える (P85)
つまるところ、これらは「芸術の自律性」、つまり「芸術でしか実現できないこと」の特性であると言えるでしょう。引き続いて、これらの「芸術の自律性」を実現する「現代芸術の傾向」を見ていきましょう。
「生きられた」現実と「眺められた」現実
ここで突然、死にかかっている高名な男と、その妻、医者、新聞記者、画家が居合わせたシーンに切り替わる。

妻、医者、新聞記者、画家は同一の事実を見守ってる。だけど、それぞれ異なった側面があり、四人の視点は全く異なっていると言えるでしょう。オルテガはそれぞれの精神的な距離を測定することを提案します。
妻:最も距離が近い。ほとんど距離は存在しない。
医者:やや離れている。職業上良心から見ている
新聞記者:相当離れている。感情的には関与しない。
画家:一番離れている。事件の悲劇的な意味を持たない。「彼は外在的なもの、つまり光、影、色価のみに注目する(P51)」と書いています。
右記の例の距離の測定において、その接近度は事実への感情的な介入度に相応し、遠隔度はわれわれが現実の事件を前にしてこれを純粋な観察テーマに変えうる度合、つまり、事件からの開放度に相応する。われわれがその尺度の一方の端に位置した場合には、この世界の一つの様相、つまり「生きられた」現実を見出し、反対の端からはすべてをその「眺められた」現実の様相において見ることになるのである。
『芸術の非人間化』P51

当たり前のことだけど、この妻がこのような状況でスマホゲームに夢中になっていたら、これがテレビドラマであったら、このシーンは無意味なものとなり「意味が理解できない」シーンになるでしょう。
だから、「妻が悲嘆にくれる」ことで、このシーンの意味が理解できるようになります。オルテガはこの「悲嘆にくれる妻」を「生きられた様相」と呼び、この「生きられた様相」こそ、現実「そのもの」とみなさざるを得ないと言っています。
そして光や影、色を気にしていた「画家」に対しては「非人間的」に見えるといいます。
臨終の場面に平然として臨んだ画家は「非人間的」とみえる。したがって、人間的視点というのは、われわれが状況、人、事物を「生きる」視点だと言える。そしてその逆に、すべての現実ー女、風景、事件ーは、それらが通常生きられる様相を示すとき、人間的であるといえるのである。
『芸術の非人間化』P52-3
この臨終を待つ4人の人物の話は、「生きられた現実」とは一体何かを整理したパートでした。過去の芸術はこの「現実」を描くことが目的でしたが、現代芸術は「現実」から「観念」を描く方向にシフトするといいます。この「現実と観念」についての話は後ほど改めて登場します。
現代芸術の最も包括的な特徴:「芸術の非人間化」

オルテガは現代芸術の最も包括的な特徴は「芸術の非人間化の傾向」にあるといいます。それは1860年と現代芸術の違いを見れば一目瞭然だと説明しています。
図のように、1860年の絵画では、何が書かれているかがすぐにわかります。写実的に描き、「人間や家や山」も理解でき「ずっと見慣れてきた従来の親しみのある姿」が確認できます。それに対し、現代芸術の絵画は「現実をデフォルメし、現実のもつ人間的様相を破壊し、現実を非人間化しようともくろんでいる」と言います。まあ、何が描いてあるかすぐにはわからないということです。
人とか家とか山とかは全く違ったものを描くというのではなく、できうる限り人間に似ていない人間、われわれがその変容に気づきうるよう最小必要限の形しかとどめていない家、かつて山であったものから奇跡的に現れた円錐体を描こうとするのである。今日の美的快感は、こうした人間的なものに対する勝利から湧き出るものである。
『芸術の非人間化』P57
それでは一体、芸術家たちは何を描いているのでしょうか?先に紹介したとおり描く対象を「現実」から「観念」にシフトしたというとおり、「観念」を描くようになります。それでは「観念」って何か?を次に説明しています。
私たちは観念を通じて現実を理解する

オルテガによれば、「われわれの精神と事物との関係は、われわれが事物を考察し、事物についての観念を形成するというところに成立する。」という観念論的な話をします。
そして「われわれは観念によって事物を見る」と言います。考えるとは「観念を通して現実を把握したいという願望であり、精神の自然な動きは、観念から世界に向かう方向を取るのである」ということです。
現実を現実のまま見ることはできないということですね。たしかに、現実を完全に把握することは私には無理な話です。「言葉」で決められた内容しか理解することしかできないですね。

とはいっても、現実は「観念」から溢れでてしまう。
「しかしながら、観念と事物との間には、つねに絶対的な距離がある。現実は、つねに、その現実を内包しようとする観念から溢れ出てしまう。事物は、つねに、その観念の中で考えられた以上のものであり、別の様態をしているものである。」(P73)
これはイメージしやすいと思います。自分の知っていることは有限だから、知らないことだらけで眼の前に見えていることすら、完全に理解できるということはありえないということです。
さらに、一般的に観念と現実を混同する傾向がある。「しかしながら、一般的には、現実とはすなわち、その現実についてわれわれが考えたことであるとする傾向があり、現実と観念を混同し、観念を事物そのものと見做してしまう。」(P73-4)
現代芸術は事物をから観念に描く対象を変える

「観念と現実」を混同する傾向があることから、現代芸術では「観念」だけを描くことを選択した。
「もし画家が、現実の人間を描こうとする代わりに、その人物に対する彼の観念、彼の図式を描く決心をしたらどうであろうか。その場合、画面は真理そのものとなり、そこにはかつて不可避であった失敗もありえないであろう。現実と張り合うことを断念することによって、その絵は、真にそうあるべきもの、つまり、一枚の絵=一つの非現実に代わるのである。」(P74)
観念だけを描くことになるため、観念と現実の関係については考える必要がなくなったことから、間違いを起こすこともなくなったが、鑑賞者からすれば「現実との関係」を考える部分がなくなったので、私たちが知っている姿や形のものが表現されていないため、理解できなくなるということにも繋がります。
現代美術は伝統様式に対する否定である

芸術家の過去の向き合い方についてオルテガはこう言う。「過去の芸術が未来の芸術に対して持っている影響力は測り知れないのもがある。芸術家の内部ではつねに、彼独自の感受性と既存の芸術とが衝突し化学反応を起こしている。芸術家は一人で世界と出会うのではなく、彼と世界との関係には、つねに、芸術伝統が通訳のように介入してくるのである。」(P79)
芸術家独自の感受性と既存の芸術との化学反応はどのようなものだろうか。それは「過去を継承し過去を完成させる立場」もあれば、「支配的な芸術家に対して嫌悪感を感じる立場」もあるといっている。
しかし、過去を継承し続けていると、新しいインスピレーションが阻害されてしまうようになる。
芸術におけるインスピレーションが阻害され始めるようになれば、「伝統様式に対する否定」が強くなっていく。だが、芸術は歴史的に積み上げられて来たものだから、それを否定すると「芸術」自体を否定することになってしまう、と指摘する。
ついでに、過去の芸術に対するこうした攻撃的態度は如何なるタイプの生の到来を予言するのか、という問題について考えてみると、身のすくむような劇的で巨大な不可思議な事実を発見する。というのは、今日あまりにも一般化されている過去の芸術を攻撃するという態度は、つまるところ、芸術そのものに反逆することを意味するからである。なぜならば、芸術とは、具体的にいって、今日にいたるまでの間に作り上げられたものにほかならないからである。
『芸術の非人間化』P81
現代芸術は喜劇的であり笑劇である

現代芸術は「芸術そのものに対する否定」を行うことによって、前進するという内容になっていましたが、そんなに伝統芸術に対して怒っている/憎んでいるからではなく、怒っているけど好きだから、おどけるように「自己自身に喜劇的に関わる」姿勢を自分に要求していきます。
また「人間の生きた事実を描く」ことから「観念」を描くことになった芸術は、他律的な目的が存在しなくなるため、芸術の自律性を高める方向になっていきます。
つまり、芸術のための芸術に向かっていくことになり、それは冗談に近い話となってくるといいます。まさに芸術自体が笑劇になっている。
このあたりからオルテガは現代芸術に対して距離を置くような言い方をしているように感じてきます。オルテガは、この部分を肯定的に書いているのか、否定的に書いているのかは私にはわからなくなってきたのですが、これはドイツ・ロマン派の「アイロニー」を引き合いに出していることから、全く否定している話ではないかとも思いました。
それはともかく、こうした傾向は、その思想としても理論としても、けっして今回がはじめてというわけではない。19世紀の初頭に、シュレーゲル兄弟を指導者とするドイツ・ロマン派は、アイロニーをもって美の最高の範疇とした。そしてその理由は、今日の芸術の意図に一致するのである。つまり、芸術は、もし現実を再現し複写するだけならば、その存在理由はないというわけである。
『芸術の非人間化』P84-5
補足として、シュレーゲル兄弟のアイロニーとは「自己破壊と自己創造の絶え間ない交替」を意味し、それは絶えず乗り越えて新しいものを生み出すことを指しています。
芸術の存在理由とは

続いてオルテガは、芸術の使命について語ります。
芸術の使命は、現実には存在しない地平線を出現させることにある。その使命を達成するためには、われわれの現実を否定し、そうすることによって、われわれをその現実の上に引き上げなければならない。つまり、芸術家であるということは、われわれが芸術家でない限りそうするであるように極めて真面目な人間を真面目にとりあげないことである。
『芸術の非人間化』P85
ここは、伝統に縛られず現実を否定して新しい芸術を生み出すということを言っていますが、次の「つまり、芸術家であるということは、われわれが芸術家でない限りそうするであるように極めて真面目な人間を真面目にとりあげないことである」というところに引っ掛かりました。
おそらく、ここで言っている「われわれ」は「大衆」のことを指し、「大衆は極めて真面目な人間を真面目に取り上げない」存在で、「芸術家も大衆のようにしなくてはいけない」と言っている。これは芸術家が大衆化しているという「アイロニカルに(皮肉として)」書かれています。これは現代芸術は知的には進化しているが「生きた現実」を表現するという『大衆の反逆』で書かれていたような「生を実現する:精神的な貴族」から離れていることに対して批判しています。
芸術はかつては重要なものであったが、今は重要ではない

19世紀の芸術は「社会的な重要なテーマを取り上げ」「社会・政治・宗教・哲学との関連付けを要求される」ようなオルテガ的貴族の役割を果たしていた。
しかし今や、社会から離れていき、芸術独自の美的快感を追求する存在となり、それはまるで、スポーツやゲームが得ている人気を指を加えながら見ている存在でしかなくなっているという。社会を作り上げることに参画せず、自己中心的でポリシーのない『大衆の反逆』における「大衆」に芸術家はなったと言っているのと同じである。
今日の芸術家は、雰囲気が厳粛さを失いはじめ、事物がいっさいの形式から自由になって飛び始めるのに気がついたときにはじめて、そこに芸術の成果を感じはじめるのである。すべてのものが跳躍している状態こそ、彼にとっては、ミューズが存在することの真の証拠なのである。芸術が人間を救うことがあるとすれば、それは人間を生の厳粛さから開放し、思っても見なかった幼年時代に帰してくれるからに過ぎないのである。かくして、あの森の入口で子山羊たちを踊らせたパーンの魔笛が、再び、芸術の象徴となったのである。
『芸術の非人間化』P87
もうここまで来ると、オルテガは現代芸術の芸術家に対して「勝手にぴょんぴょんジャンプしておきなさい」と言っているようにしか聞こえません。
おわりに
最初は明らかに「19世紀の芸術=大衆的芸術」「20世紀の芸術=貴族的芸術」という位置づけで話をしていたのに、最後になると「19世紀の芸術=貴族的芸術」「20世紀の芸術=大衆的芸術」と反転しました。それは「人間の生」の取り扱い方で、やはり「人間の生を排除する」という点で既にオルテガ的には興味がなくなったのかもしれません。この点をうまく小田部氏が解説しているので最後に引用したいと思います。
オルテガが「新芸術」の内に見て取ろうとした現象(すなわち「優れた人間」によって支配される芸術の成立)は「前衛-後衛」の比喩によって捉えることのできる事態であり、いわゆる「前衛(アヴァンギャルド)運動」の時代にふさわしいものであった、といえよう。だが、彼は同時に、こうした前衛運動を支えている精神が、とりわけその否定性ないし暫定性という点において、当時の大衆化社会の精神と符号することも洞察していた。その点では「新芸術」は何ら新たな生の創出に対して有効に作用することはえりえないはずである。このように、オルテガの理論は、「大衆」にあえて背を向けて「選良」に対して語りかける「新芸術」を前にして、前衛芸術が同時に大衆化社会に解消されていく過程をも視野に収めていた、といいうるであろう。
小田部 胤久『人間的芸術の行方』(美学藝術学研究20 P129)
とはいえども、個人的には「芸術の自律性」は今でも必要なことだと思っているし、それが故に新しい物の見方が現れることもあると思っています。建築もよく「建築の自律性」を語る建築家がいますが、それも必要なことだと感じます。プロダクトデザイナーにはあまり「デザインの自律性」を語るデザイナーはあまり出会いませんが、プロダクトデザインでも、プロダクトデザインでしか表現できないテクニックがあり、自律性を探求する必要はあると思います。
そもそも「デザインする」ことは「人間のために」作る他律的な行為であるため、「人間の生」を最大の目的にするということは当然の話で、それをクリアした上で自律性を考えるというのが正しいと思っています。
私個人は、クライアントに対してプレゼンするときは「デザインが人に与える影響や効果、経営上の効果」をメインに説明し、デザインならではこだわりの自律性の話は全くしません。だからといって「プロポーションの美しさや均整さ」「かっこいい」「かわいい」などの自律的要素は検討時には重要視します。なぜならば私はデザイナーだから気にします。
また、一つのクリエイティブが、必ずしも効用性とデザインの自律性が同一の概念で処理されている必要はないと思います。芸術もそのように感じています。社会的テーマを持った作品も多く存在するし、必ずしもそれらの作品の社会性が色や形にダイレクトに現れているわけではありません。意図的に切り離す必要もなければ、意図的に結合させる必要もありません。「窓の比喩」のときのように、レンズの焦点を「庭の風景」に合わせるときもあれば、「窓ガラス面」に合わせるときもある、ということでしょう。
話を戻すと、オルテガは現代芸術の大衆化を指摘することで、希望は失われたように見えますが、最後のページでは「私は、将来、新芸術があまり欲張らずに、より適格な実をあげることを期待している。(P91)」といっています。私は芸術家ではありませんが、今でも勇気を与えてくる言葉として受け止めておきたいと思います。
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著者について

鳥居 斉 (とりい ただし)
1975年長崎生まれ。京都工芸繊維大学卒業、東京大学大学院修士課程修了、東京大学大学院博士課程単位取得退学。人間とモノとの関係性を重視した、製品の企画やデザイン・設計と、広報、営業などのサポートの業務を行っています。
2013年から株式会社トリイデザイン研究所代表取締役。芝浦工業大学デザイン工学部、東洋大学福祉社会デザイン学部非常勤講師。
詳しくはこちら
コラムでは製品を開発する上では切り離せない、経済学や社会学など、デザイナーの仕事とは関係なさそうなお話を取り上げています。しかし、経済学や社会学のお話は、デザインする商品は人が買ったり使ったりするという点では、深く関係していて、買ったり使ったりする動機などを考えた人々の論考はアイデアを整理したりするうえでとってもヒントになります。
また、私の理解が間違っている箇所がありましたら、教えていただけると嬉しいです。デザインで困ったことがありましたらぜひご相談ください。
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