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2024.12.29

ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン』を読む [コラム015]

ディスタンクシオン

コラム第15回は、個人的な「趣味」は社会によって規定されていることを分析した、フランスの社会学者のピエール・ブルデュー(1930-2002)の『ディスタンクシオン』(藤原書店 2020/石井洋二郎訳)の総論となる第一巻から自分なりに理解した点を解説します。

ディスタンクシオンの参考図書

いきなりですが、最初に参考図書を3冊紹介したいと思います。今回取り扱う『ディスタンクシオン』は読みにくい書かれ方をしていて、一度読んだだけではイマイチ意図がわかりにくかったので、三冊の参考図書を読んで、基本的骨格を理解することができました。

一冊目は『ディスタンクシオン』の翻訳をした石井洋二郎(1951-)氏の『ブルデュー ディスタンクシオン講義』(藤原書店 2020)、二冊目は同じく石井洋二郎『差異と欲望』(藤原書店 1993)、三冊目は岸政彦(1967-)氏の『100分で名著ブルデューディスタンクシオン』(NHK出版 2020)です。

ブルデューを知らない方は『100分で名著ブルデューディスタンクシオン』から読むことをおすすめします。『ディスタンクシオン』でブルデューが何を言いたかったかや、ブルデューの生い立ち、ブルデューがどのような社会学者だったのかなどを簡潔に紹介しています。その次は、『ブルデュー ディスタンクシオン講義』です。口語調で書かれていて、普通の人の立場で解説しているのと、『ディスタンクシオン』の章立てに沿って解説してくれているので、一緒に読むと理解が進むと思います。

最後の『差異と欲望』は、ブルデューが『ディスタンクシオン』で言いたかったことを再構成して解説した本です。ディスタンクシオンとは「区別する」「違いを見分ける」などを意味するフランス語で、さらに「上品な」「気品のある」や「すぐれた」「卓越した」という意味もあり、とのことで、石井洋二郎氏は「卓越化」という日本語に翻訳しています。また、『差異と欲望』の序の説明が面白かったのと卓越化の欲望をわかりやすく表現していたので、長くなりますが引用します。

一歩でも他人の先に行くこと。
無名のマッスに埋もれるのではなく、そこから文字通りに「頭角を現す」こと。
コマーシャルのキャッチコピーでも参考にしながら、さしあたり身近なところから始めよう。
学歴的にはほぼ同等の連中が集まった職場で目立つには、会議の折にちょっと「ひと味違う」発言をしてみることが必要だ。
外見が十人並みであるならば、服装や身のこなしの優雅さで「差をつけて」みようではないか。
暮らしぶりは典型的な中流であっても、具体的な趣味や消費行動のレベルで「違いのわかる」ところを見せてやることはできる。
どんなに小さなことでもいいから、とにかく他者との差異をしるしづけすること、匿名の集合から抜きん出ることが肝腎だ。
自分を卓越した存在として他者から区別すること。
他者との違いを強調することによって自分を引き立たせること。
差別化。卓越化。ディスタンクシオン。

『差異と欲望』P13

卓越化というのは、ここに書かれていることに良くまとまっていると思います。ちょっと皮肉気味に書かれていて、著者の石井氏が好きになってしまいました。ちなみに表紙の花はアイリスです。なぜアイリスなのかはディスタンクシオン自体の内容を理解するとわかると思います。個人的には、表紙が花ってのはレヴィ=ストロース(1908-2009)の『野生の思考』のパンジーを思い起こさせます。

もし、ディスタンクシオンに興味を持ったら上記の参考図書もおすすめです。

長くなってしまいましたが、前談はこれで終わりで、今回コラムのテーマである『ディスタンクシオン』の骨格となる部分と思われる内容をできるだけわかりやすく解説していきたいと思います。

この本の構成

ディスタンクシオンの構成

ディスタンクシオンの日本語版は、2巻に分かれていて、第一巻が「総論」第二巻が「各論」となっています。

第一巻は、1部が趣味と階級についての調査結果と分析となる「趣味判断の社会的批判」で、2部が「慣習行動のエコノミー」と題され、「経済資本」を縦軸に「文化資本」を横軸に取った「社会的位置空間」を解説する「社会空間とその変貌」、ディスタンクシオンで重要な概念となる「ハビトゥス」を紹介した「ハビトゥスと生活用様式空間」の説明となります。

第二巻は各論となり、各階層(支配階級、中間階級、庶民階級)ごとの詳細な傾向を解説しています。今回のコラムでは、『ディスタンクシオン』の基本骨格を説明することを目的としているので、第二巻の内容には触れず、第一巻の総論に絞って解説していきます。

第一巻の話の進み方

話の進み方としては、文化資本、美的性向、社会空間、ハビトゥス、象徴闘争というキーワードに沿って進んでいきます。これだけ見るとちょっとわかりにくいですよね。

人が「どんな人?」という話をするときに、「高級住宅街に住んでいる」とか「下町に住んでいる」という経済的な視点で見るだけでなく、「知的だ」「アートが好き」「休日は野球をする」「二郎系ラーメンが好き」「お神輿を担ぐ」「アルファードに乗っている」という金銭とは関係のない情報からでもその人を理解したりしていませんか?

このような金銭とは関係のない情報のことを文化資本と呼びます。そのような文化資本は「上品/下品」「派手な/地味な」「洗練された/粗野な」「しゃれた/野暮ったい」という形容詞で区別(distinguish)して、その人を判断するのも同時に行われます。その文化資本は「そうとは感じられぬうちに早期から始まり、ごく幼い時期から家庭で行われる体験的習得」(P115)で得られるようなものであり、それがハビトゥスと呼ばれるものです。

文化資本はハビトゥスから生まれるもので、その文化資本を武器に「名声、評判、維新、名誉、栄光、権威など公認の権力としての象徴権力」(P409)の獲得を目的として、マウントを取り合うというのが「わたしたちの住んでいる社会である」というのが『ディスタンクシオン』第一巻の流れとなります。

自分で決めていると思っていた趣味は、社会的に規定されてるかも

自分の趣味は社会的に規定されている?

ディスタンクシオンを読むと、自分の趣味(文化資本)は社会的に規定されている、周囲に影響を受けていることは思っている以上に大きく「自分で決めているのではなくて、社会が決めている」と思う感じがします。

私は関西出身だからなのか、たこ焼きもお好み焼も好きで、子どもの頃から家で両親が作ってくれた思い出などもあります。音楽についてはエイフェックス・ツイン、アンダーワールド、ファットボーイ・スリムも好きですが、バッハもピアソラも好きで、たまたま家にレコードがあって、家族の誰も聞かないクラシックのレコードをよく聞いてました。

自分が好きなものを持っているのは、自分が持っているものを好きになるから、すなわち配分上実際に自分に与えられ、分類上自分に割り当てられている所有物を好きになるからのだという事態を、趣味はもたらすのである。

『ディスタンクシオン』P286

私の父は鉄道会社で電車の運転手をしていた、ごく普通の庶民の家でしたが、それでも家にあるものを中心に好きになるから、何が家にあったかによって影響されている可能性が高そうです。

ちなみに母親は看護師で、私が子どものころ、毎年日本光電のカレンダーを病院からもらってきていたのですが、とってもシンプルなデザインで、よく好んで使っていたような思い出を思い出すと、ささいな出来事が今の職業になんらかの影響を与える気もしてきました。

趣味は人間の階層を表している

写真の被写体の好みの違い

ブルデューは、フランスの学歴別に写真の被写体の好みの違いを調査しました。そうすると、普通の人が素敵だと思う「最初の聖体拝領」「民族舞踊」などが美しいと思う人々と、なんてことのない「木の皮」「キャベツ」などが美しいと思う人々が学歴というカテゴリーで分布が分かれている結果に至りました。音楽などでも同様の傾向が見られ、どうも「趣味」と言われているものは、階層によって分かれてくると言っています。

つまり、上層階級、中間階級、庶民階級によって趣味が変わることになりますが、そのようなことはなぜ発生しているのか?その違いは一体何なのでしょうか?そして、上だの下だのを決めているのは一体誰/何なのでしょうか?

[文化資本] 音楽の好みの傾向

音楽の好みの傾向

次に音楽の好みの傾向を調べた結果です。『ラプソディー・イン・ブルー』『アルルの女』『美しき青きドナウ』などが庶民階級の人々に好まれています。「いずれもクラシック音楽の中では最も大衆化・通俗化の顕著な曲であり、わざわざ聴こうと思わなくてもテレビやラジオでしょっちゅう流されているし、学校の授業でも聴く機会のありそうな曲」(「差異と欲望」P92)という曲です。

ラヴェルの『左手のための協奏曲』は、どちらかといえば、子どもの頃からピアノを練習している人が好きな曲という傾向があるようです。『フーガの技法』『平均律クラヴィーア曲集』は、後で説明する美的性向の定義をベタに表現している曲なので、上流階級となるのでしょう。

確かにコンサートで『アルルの女』と『フーガの技法』のどちらかしかなければ、そりゃ『フーガの技法』を聞きに行きたいと思ってしまいます。

上流階級のフリをしたいからとかそういう動機ではなく、単純にカッコいい曲だからと個人的には思っているのですが、これも社会に規定されたものかもしれません。

[文化資本] 3つの趣味世界

3つの趣味世界

音楽の好みの傾向と職業から、3つの趣味世界を分類しています。「上流階級=正統的趣味」、「中間階級=中間的趣味」、「庶民階級=大衆的趣味」です。

今はネットなどで誰でも情報が入手できる環境にあるので、ここまで明確に言い切ることはできないと思いますが、知っていないと聴く機会もないという意味では、「親が聞いてたから知ってる」という認知機会もあるので、一概に間違っているとは言い切れません。

この説明を音楽の傾向の後に記載しているのは、音楽が持っている特性によるものだからです。

たとえば音楽の趣味ほど自分の属する「階級」があわらになり、それを通して避けようもなくある階級に分類されてしまうものもないのだが(中略)、しかしそれはまた「音楽的素養」を見せびらかすことが、他の場合のような単なる教養の誇示とは違っているからでもあるのだ。社会的観点から定義すると、「音楽的素養」というのは、単なる知識や経験の蓄積に、それについて弁舌をふるう能力をあわせもっているといっただけのことではない。音楽とは数ある精神芸術の中でも最も精神主義的なものであり、音楽を愛するということは、「精神性」の保証なのである。

『ディスタンクシオン』P40

さらに、小説や演劇と基本的に異なる点を音楽は持っていて、

音楽とはなによりも「純粋」な芸術なのだ。音楽はなにも言わないし、なにも言うべきことを持たない。それは本当の意味では決して表現機能をもたないという点で、演劇と対立する。

『ディスタンクシオン』P41

ここは美学の定義とも関係してくるところですが、「音楽は何も言わないし、言うべきことを持たない」がゆえに純粋な芸術という立場を持つ。芸術は基本的に道具と違って機能は持たない。何かの役に立ったりすることはありません。そして純粋性が高ければ高いほど、芸術の評価は高まります。そして『フーガの技法』が正統的趣味として評価されるのは、それがタイトルの通りフーガの技法(単純フーガ、反行フーガ、3重フーガ、胸像フーガなど)のカタログだからです。

[文化資本] 文化資本の獲得方法

文化基本を整理しておきましょう

さきほど文化資本は「金銭とは関係のないもの」と書きましたが、それでは文化資本にはどのような種類があるのかを整理しておきます。

まず、自分の知識である「身体化された文化資本」、そして本やピアノ、パソコン、スマホなどの知識や技術を獲得する道具である「客体化された文化資本」、免許証や卒業書などの自分の能力を保証する「制度化された文化資本」の3つの文化資本があります。この分類は『差異と欲望』を参考にしました。

文化資本を身につける方法

上記のような3つの文化資本を獲得する場所は、大きく分けて、家と学校です。働いてからは職場が入るとは思いますが、ここでは家と学校としておきます。

家で獲得する文化資本は「学校で教えてもらわない全てのもの」ということでいいと思います。話し方、食べ方、服の選び方、振る舞いなどは学校では教えてくれません。

つまり、学校での学びはスタートラインはみんな同じだから「家庭の雰囲気、当たり前だと思っていること」などで差が出るということです。

[文化資本] 学校は人を振り分ける空間だ

学校の隠された役割

ブルデューは、文化資本は家と学校の両方から獲得されると説明したのちに、学校のスタートラインはみんな同じだけど、家で身につけた文化資本をもった子供は、学校教育でもっと伸びていく反面、家で文化資本を身に着けられなかった子供は、能力を発揮できずに更に不利になっていくという、平等に教育しているはずなのに、差がついてしまう、という「学校の隠された効果」について注意を促します。

平等であると思っていた学校が、家で身につけた文化資本により、「できる子」と「できない子」をテストや行事(運動会・音楽会・展覧会など)により区別するようになっていきます。

[文化資本] 本質主義とは?

本質主義とは?

そして「できる子」は「◯◯大学卒」という形で肩書を付与されます。その肩書を持つと「知識も教養もある」と証明しなくてもみんなが納得することから、「何かができるから貴族なのではなく、ただ貴族であるから貴族である。そして他人からも貴族であると認められる」(『差異と象徴』P44)というように社会的に考えられ、それを「本質主義」とブルデューは言っています。

そして、支配階層が有している文化資本は正統的とみなされます。本質的であれば正統的となります。ただし、正統的文化の世界に入るには条件があり、そのうちで最も厳しく要求される美的性向を次に見ていきましょう。

[美的性向] 機能に対する形式の優位

美的性向で人工物は芸術作品となる

美的性向は「芸術作品を正統的に評価できる能力」のことで、支配階級の人間は、正統的な行為を行うことによって支配階級となります。そうすると、その評価基準は何か?ということが気になります。

ふつう「すごい!」と感じる芸術作品を見たとき、空から降ってきたような「瞬間的な啓示」との出会いと感じることで衝撃を受けたりすると思っていますが、ブルデューはそれは幻想で美的性向のルールで決まるものだといいます。

すなわち芸術作品をまさしく芸術作品としてとらえる「純粋」知覚という理想は、相対的に自律性をもった芸術諸領域を構成するにあたって必要とされる、いわゆる芸術としての正統性を支える諸原則の明白化および体系化の産物なのだということである。

『ディスタンクション』P60

つまり、芸術作品を芸術作品たらしめているものは、正統性を維持するための「純粋」知覚というもので成立させているが、

機能に対する形式の絶対的優位、すなわち表現形式の絶対的優位をうたいあげるような芸術的意図から生み出された芸術、たとえば印象派の絵画のような芸術は、過去の芸術が条件付きでしか要求しなかった純粋に美的な性向を断固として要求する。

『ディスタンクション』P60

「純粋」知覚は、「機能に対する形式の絶対的優位」「表現形式の絶対的優位」のルールの下に作動する知覚である。つまり「何が描かれているか?」という機能ではなく、「どのように描いているか?」という形式で芸術作品の正統性が決まってくると言っています。つまり、美的性向の評価基準は表現形式の独自性ということになるでしょう。

デザインの仕事をやっているとまさにその通りと感じますが、ふつうの人からすると何を言っているんだ?という感じがすると思います。それを大衆美学の基本原理を説明すると、言わんとすることが理解できると思います。

[美的性向] 大衆美学の基本原理

大衆美学の定義

『ディスタンクション』で書かれている大衆美学は、「すぐにわかる」「難しくて退屈な理屈はいらない」「ハッピーエンドが好き」「単純なストーリーを好む」などのような説明をされます。これはつまるところ、「必要性からの距離が近い」=「わかりやすい」ということが基本原理であることをしめしています。

でも、作る方からするとちょっと面白くありません。「みんなが喜ぶ紋切り型のモノ」を作るよりも、「いままで存在しないようなモノ」を作りたいからです。

話は外れますが、生産者(デザイナー)としては、デザイン界(基本的に消費者の世界とは無関係だが、間接的には関係してくる)で他のデザイナーが行わないスタイル(形式)のものを出すことで、卓越したがります。そしてデザイナーは形式で卓越化できると自分の地位をデザイン界で上昇させることができます。しかし、あまり形式の差異にこだわりすぎると、製品が多くのターゲットユーザーである「大衆の好み(大衆美学)」に合わなくなり売れなくなるため、メーカーとしてはデザイナーのスタイルの違い(形式の差異)の試合(バトル)を抑える傾向を示します。

とはいえども基本的には、表現をする立場(生産者)としては、今までのやり方と異なる表現を探るような方向に行き、おおよそ無意識ではありますが、正統的美学の方向で考えていきます。

大衆美学と正統的美学を比較すると、全く逆であることに気が付きます。文化資本の支配層は「正統的美学」を、大衆美学の否定で定義するような感じになっています。大衆美学が機能性を重視しているのに対して、正統性美学は形式性を重視するという対立した構造になっています。それが故に、趣味が階層を表しているとも言えます。

[社会空間] 社会的位置空間

社会的位置空間

『ディスタンクション』で最も有名な社会的位置空間をP208の図から簡略化して作図したものが左の図です。

縦軸の資本量は「経済資本+文化資本」を示していて、横軸は左側に行くと文化資本が多く、右側にいくと経済資本が多くなっています。この平面に職業を配置した図が、社会的位置空間の図です。

左上には教授が集まっています。右上は商・工業経営者が集まり、真ん中の上には医者、弁護士、建築家のような自由業の職業が集まります。

注意しないといけないのが、これはあくまでも1970年代のフランスの社会的位置空間であり、現代は産業構造も変わっているので、この通りではなく、ブルデュー自体もこの図は時間軸を持つので、固定的なものではないと言っています。

経済資本だけだとそれほど難しくなくイメージできますが、文化資本を組み入れた図というのは見たことがなかったので、このような位置関係というのは不思議なものです。また現代の日本の社会的位置空間も見てみたい気がします。個人的な位置としては文化媒介者あたりかなと思ったりしました。

[社会空間] 生活様式空間

生活様式空間

生活様式空間は、職業名が配置された「社会的位置空間」の図に、好きな音楽、スポーツ、乗っている車などの文化資本情報を載せたものです。

やはりこちらも左上が、芸術家や、作曲家などの名前が書かれていて、右上はいかにも金持ちの趣味が羅列されています。下のほうは、庶民の楽しみが配列されており、わたしたちがイメージする世界とそれほど違いはありません。

こちらも社会的位置空間と同様に時間軸をもった図なので、固定的ではなくあくまでも1970年代のフランスの状況を表現したものにすぎません。

社会的位置空間も生活様式空間も、『ディスタンクション』を最後まで読んでから、もう一度見ると、その空間をイメージしやすいもので、ブルデューが言おうとしている世界を一枚の図で表しているといえます。

[社会空間] 時間の経過で変わっていく

社会的位置は時間の経過で変わる

社会的位置空間は、時間の経過で変化するので、3次元であると説明しています。

具体的には、横断移動や垂直移動が発生します。しかし、横断移動はほとんど行われず、垂直方向での移動がさかんになります。

特に学校に行く子どもたちが増えたことにより、学歴資格のインフレが発生し、たとえば「大学を卒業したけどタクシードライバーになる」というようなことが発生してきます。これは既に日本でも起こっているので、イメージはできます。

特に興味深い話としては、学校制度を活用できないブルジョワの子どもたちは、新しいタイプの職業(骨董屋、室内装飾家、デザイナー、写真家など)のような位置が決まっていない職業になることが多いとのことです。位置が決まっていない職業というのは、今でいうとユーチューバーなどの職業みたいかと思います。

[ハビトゥス] 基本原理

ハビトゥスの2つの能力

先ほど、ハビトゥスの説明時に「そうとは感じられぬうちに早期から始まり、ごく幼い時期から家庭で行われる体験的習得」であると紹介しましたが、ハビトゥスは習得するだけでなく、自分でその習得した能力を使って、文化資本を生み出す原理でもあり、さらにそれを評価する能力でもあります。

そのようなハビトゥスは、他の分野(界)に転移可能な性向しても機能します。これは例えば「話し方が上品な方は食べ方も上品だ」というように、同じルールで他の振る舞いも行う傾向があるという話です。

ハビトゥスとは身体化された必然、つまり、道理にかなった慣習行動を生成し、またこうして生み出された慣習行動に意味を与えることができる知覚を生成する性向へと転換された必然であって、それゆえ全般的であり、かつ、他の分野に転移可能な性向として、現に所有されている諸特性の習得条件に固有の必然性を、直接に獲得されてきたものの範囲を超えて、体系的かつ普遍的に適用することができるようにするものである。

『ディスタンクション』P279
文化資本の種類別のハビトゥスの対立

ハビトゥスは、ブルデューの調査では、庶民階級と上層階級では対立構造を示します。

たとえば、話し方では、「率直な話しぶり/高度に検閲された言葉遣い」、振る舞い方では「派手な身振りやいらだち/緩慢さ、ゆったりした身振り」、食事では「大量の食事、素材、実質/軽い食事、調理法、形式」というような違いが明確に出ます。

ここでは、食物の選択のハビトゥスについて見ていきましょう。

[ハビトゥス] 食べ物の好みが階層によって違う

上流階級の職業別の支出構造 -3つの卓越化方式

まず階級内の対立から見ていきましょう。支配階級の職業別の支出構造からの傾向を確認します。

教授は、他の2つの職業に対して「教育娯楽費」の割合が高いことから、文化資本の面においての卓越化を図っています。それに対して、工業実業家・大商人は、それに対して食費の割合が支出の4割近くを占め、めちゃくちゃエンゲル係数が高いです。食事で卓越化を図っていると見れます。

上流階級の食料消費の内訳

次に、それぞれの食費の内訳から特徴を見てみましょう。食費に最も費用をかける「工業実業家・大商人」は、ワイン、肉の缶詰、猟肉(ジビエ)などばかり食べるようです。自由業はとにかく高いものを食べるようで、教授は経済資本も高くはないので、パン、乳製品、砂糖、非アルコール飲料など質素な内訳になっています。

支配階級内でも傾向が違うことがわかりました。

食物の階級による違いの傾向

それでは次に、庶民階級と支配階級との違いを見てみましょう。庶民階級は基本的には「価格と栄養」を最も重視します。これはとっても理解できる内容です。

支配階級は、「身体の均整維持を重要視する」食べ物を選びます。たとえば、工業実業家・大商人はジビエを好んで食べていました。ジビエは脂身が少ない赤身の肉であるのが特徴です。確かエンゲル係数が最も高い職業の人達ですが、イメージと違って体型を気にして食物を選択しているのですね。

ある人にとってふさわしい食物とはなにかという社会的定義が形成されるにあたって、その媒介となるのは、ほとんど意識的な表象だけではない。それはより深いところでは、身体的図式の全体であり、なかでも食べるという行為において身体をどのように扱うかというそのしかたなのであって、それがある種の食物を選択する際の基本原理となっているのである。

『ディスタンクション』P307

自分にふさわしいと思われる外観(体型)を維持することが、食物を選択するときの原理になっているとのことですね。だから、脂身の少ない赤身のジビエを好んで食べるとのことです。

[象徴闘争] 基本原理

自分の好きなことであり、地位や身分と職業とは関係のないように見える「趣味」が社会を規定し、自分自身を規定しているという『ディスタンクション』の主題となる部分でした。総論の最後は、これまで明らかにしてきた様々な対立におけるポジションを決める戦いの話になります。戦いといっても戦争をするわけではなく、「名声、評判、維新、名誉、栄光、権威など公認の権力としての象徴権力」(P409)を獲得するための象徴闘争です。

まず確認しておかなければならないのは、ここで進行しているのがかつてのような「階級闘争」ではなく、「象徴闘争」であるということです。つまり問題になっているのは、プロレタリアートがブルジョワジーの独占する政治的覇権を奪取し、社会空間の構造そのものを転覆することを目指して繰り広げる現実的な闘争ではなく、さまざまな社会的位置にある人が自分に親しい趣味や慣習行動を正統的なものとして定義し、これを支配的価値観として押し付けることを目指した、象徴レベルにおける闘争なのです。

『ブルデュー ディスタンクション 講義』(P128)

つまり自分の趣味や慣習行動を正統化してマウントを取るのが目的です。それにより本質的になることで、価値を支配していきます。

[象徴闘争] 基本原理の空虚さ

プレイヤーと顧客の共犯関係のゲーム

この象徴闘争は、支配階級/中間階級/庶民階級という対立がないとそもそも成立しないゲームで、自分を正統化したいという欲望は、相手がいないと生み出されもしません。

しかし、このことに気がついていない人も多く次のように言うことはタブーとされていると指摘していて面白いです。

このゲームでのタブー

「ゲームへの欲求やゲームをする喜びの感情が生まれつきのものであると思い込ませることがゲームの一効果」(P407)だから、文化とは何の役に立つのか、などの質問を口に出してはいけない。

「それはただの好みにしかすぎない」とか「そんなのみんなが好きなものでしかない」みたいな話をすると、話が続くかなくなってしまうので、象徴闘争自体が成立しなくなっていまいます。

おわりに

これで『ディスタンクション』の総論である第一巻の解説を終わります。つまるところ、自分が関わっている分野(界)で「おれの好きなのが一番ええで!」ということを題材にマウントを取り合うことで、「俺が一番エライ!」ということをいろいろな文化資本の「正統化」という武器を使って、まわりに「俺の正統が一番や!」を押し付けあうのが象徴闘争ということかと思いました。また、その正統化の根拠も「決めた人の恣意的な基準」でしかないから、いつでも闘いは継続し続ける。

だから、このように関西弁で書くことによって、標準語が「正統的世界」だと思っている人からすると、「もはや正統ではない」となりますが、関西弁が「正統的世界」だと思っている人からすると「まさに正統的以外の何者でもない」となるということです。

デザイナーという自分の職業(界)との側面から振り返ると、個人的にはマウントしながら生きているつもりはないですが、確かに自分が生み出したデザインが提案した界で、「正統的なもの」的に評価されると単純に嬉しくはなります。ただ、界で認められる認められないは関係なく、個人的には自分がデザインしたのものに対しておおよそ「今回もいい感じに仕上がった」という自負はあります。

また、「美的性向」の解説部分の解説が一番印象に残っていて、特にオルテガ・イ・ガセット(1883-1955)を引き合いに出した部分が印象的で、とても整理して書かれており、もやっとしていたものが明確になりました。

オルテガ・イ・ガセットは、
ルネサンス以来芸術のうちにしるされていたひとつの意図を
その究極的な帰結にまでひたすら推し進めようとする現代芸術の特色として、
あらゆる「人間的」なものを、ということはつまり、
普通の人間が普通の生活において感じるさまざまな情熱とか情動、感情などを
そして同時にまたそれらをひきおこしうるあらゆるテーマや対象を
一貫して拒絶するところを挙げている。

『ディスタンクション』P63

ピエト・モンドリアン(1872-1944)やドナルド・ジャッド(1928-1994)、カール・アンドレ(1935-2024)などの作品を見たときに、何が見たいかと思えば、「コンポジション」や「バランス」です。そのときに作者の人間性などは捨象しているような癖がついています。人間的な情熱や情動などは考えたこともありませんでした。たとえば、アンドレのコンクリートの作品を例に挙げて、あんなに大量のコンクリートを作ったり、並たりするのは大変だな、とかそういうことは考えません。

最後にブルデューは『ディスタンクション』で何を言いたかったか?という点について、『100分で名著ブルデューディスタンクシオン』の著者の岸政彦氏の言葉を引用して終わろうと思います。

ブルデューが描く人間像は、やはりどうしても不自由な存在です。私たちは深いレベルまでハビトゥスによって、社会構造に規定されているのです。
しかし私は、その事実を知ることのほうにむしろ、ある種の「解放」を感じます。自由とは、何でも好き勝手にできるとか、どんな自分にでもなれるということではありません。持って生まれたものに方向づけられ、生きる社会の構造に縛られ、それでもその中でなんとか必死に生きている。自由とはそういうものだと考えているからです。

『100分で名著 ブルデュー ディスタンクション』P97

著者について

tadashi torii
鳥居 斉 (とりい ただし)

1975年長崎生まれ。京都工芸繊維大学卒業、東京大学大学院修士課程修了、東京大学大学院博士課程単位取得退学。人間とモノとの関係性を重視した、製品の企画やデザイン・設計と、広報、営業などのサポートの業務を行っています。

2013年から株式会社トリイデザイン研究所代表取締役。芝浦工業大学デザイン工学部、東洋大学福祉社会デザイン学部非常勤講師。
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コラムでは製品を開発する上では切り離せない、経済学や社会学など、デザイナーの仕事とは関係なさそうなお話を取り上げています。しかし、経済学や社会学のお話は、デザインする商品は人が買ったり使ったりするという点では、深く関係していて、買ったり使ったりする動機などを考えた人々の論考はアイデアを整理したりするうえでとってもヒントになります。

また、私の理解が間違っている箇所がありましたら、教えていただけると嬉しいです。デザインで困ったことがありましたらぜひご相談ください。