ランドル・コリンズ『脱常識の社会学』を読む [コラム021]
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コラム第21回目は、社会学者のランドル・コリンズ(1941-)による『脱常識の社会学』(井上 俊・磯辺 卓三訳/岩波現代文庫)(原書初版1982/1992)を取り上げたいと思います。コリンズはこの本で『社会の基礎は合理的な思想ではなく「非合理な信頼」から成立している』『宗教における儀礼と同様に、現代の社会は「新しい形の儀礼」により成立している』と言っています。
合理的な考えをしたり、理性的な考えをするように行動しよう、と小さい頃から教えてもらうことが多いと思います。だけど、実際には仕事は思っているほど「合理的に進まない」し、感情的にテンションが高まっている方がうまくいく場合があります。確かに仕事などでは、部分的に見ると合理的だけど、全体として見た場合に、合理性とは異なる「何か別の力が働く」ことが多いと感じ、それらの原因と思われることを、とても上手く説明していた内容だったので、取り上げたいと思いました。

わたしたちは、自分が思っている以上に「シンボル/象徴」や「儀礼」を「守ろう」とします。たとえば、自分が応援してるスポーツチームの「ロゴマーク」を意図的に燃やされたり汚されたりすると多くの人は「不快感」を感じたり「悲しく」感じたり、「怖く」感じたり、燃やした人に関して「不信感」を感じるはずです。
合理的に考えると「ロゴマーク」が燃やされても「試合の結果は変わらない」はずですが「道徳的に許しがたい感情」を抱くと思います。それらの象徴は「自分が所属しているもの」を表しているものであり、それらを否定された感情を抱くからにほかなりません。
この本は、会社であろうと、国であろうと、連帯感や結束感を高めるために「象徴/シンボル」や「儀礼」が用いられていて、これは実は宗教と同じ構造を持っているという話をしています。産業革命を経て資本主義社会になって、宗教はかつての社会のような中心的な存在ではなくなっていますが、その宗教を成立させていた「儀礼という共通基盤」は現代社会でも生きているとコリンズは言います。
確かに日常生活をしていると「象徴/シンボル」だらけだし、挨拶という「儀礼」も毎日やっていますし、マナーやエチケットという「気遣い」という「儀礼」もほぼ毎日しています。これらは何のために存在しているのか?というところをこの本では明らかにしようとします。今回は『脱常識の社会学』の「基本概念の説明」の部分についてわたしなりに理解した部分を解説していきたいと思います。
もくじ
- この本の構成
- [基本] 私たちは合理的であることを誇りにしている
- [基本] マンハイムの「2つの合理性の類型」
- [基本] 契約には「結んだ契約を守る」という暗黙の契約がある
- [基本] 純粋な合理性だけ考えると「欺く」方が正しくなってしまう
- [基本] デュルケームの「非合理的連帯」
- [契約社会] 無料バスの話
- [契約社会] 「商取引の形態」の変化が技術発展につながる
- [契約社会] ウェーバーの「プロテスタントの倫理」
- [権力と連帯] 国家は「正しくて強いと国民が信じる」から成立する
- [権力と連帯] 集団を維持させるには「連帯感情」が必要
- [宗教の基本] 宗教は「何か現実的なもの」を象徴的にあらわしている
- [宗教の基本] 宗教の共通基盤は「特定の信念」と「特定の儀礼」だ
- [宗教の基本] 象徴的に表現される「何か現実的なもの」とは?
- [宗教の基本] なぜ人びとは道徳的感情をもつのか?
- [連帯感の維持] 集団に所属して得られる「隠れた利益」
- [連帯感の維持] 社会的儀礼の一般モデル
- [連帯感の維持] 儀礼のムードが「感情エネルギー」を生み出す
- [連帯感の維持] 儀礼ができないときは「象徴・シンボル」で感情エネルギーを維持する
- [近代的自我] 社会が大規模になると「個人化」が進む
- [近代的自我] ゴフマンの「相互作用儀礼」
- [近代的自我] 「相互作用儀礼」は「個人的自我を賛美する儀礼」である
- おわりに
この本の構成

この本は、大きくわけて「基本概念の説明」の部分である「前編」と前編で解説した基本理論の応用編としての「後編」に分けられます。
前編では、「社会は非合理的な信頼という基盤から成立している」ことと「社会の秩序をつくる連帯感情を維持する装置としての儀礼」について解説しています。
後編では、「権力」「犯罪」「愛」「人工知能」の話をしています。後編も「脱常識」的な話をしていて非常に面白い内容です。
後編の『3.権力の逆説』では、「治す」という意味合いで同じ行為をする「自動車修理工」と「医者」の社会的立場が違うのは、「医学は自動車工学よりも神秘的であり、それが、医者の威信と力とが修理工よりも大きい理由である(P133)」という面白い話をしています。また、『4.犯罪の常態性』では「社会はその存続のために犯罪を必要とする」という話をしています。「犯罪がなければ処罰儀礼も存在しないだろう。そうなると、ルールの存在が儀式的に演示される機会がなくなり、公衆のルール意識は衰弱してしまうだろう(P179)」という興味深いことを言っています。ぜひ興味を持った方は一読することをおすすめします。
今回のコラムでは「基本的な理論」の部分である「前編」に絞ってじっくり見ていきたいと思います。

前編の「1.合理性の非合理的基礎」のストーリーは、いまの社会は合理性が美徳とされるけど、「合理性は限定的」だというウェーバーの話からスタートし、国家は合理的な「社会契約」から成立しているのではなく、非合理的な「信頼」から成立している話をします。そして、その「信頼」は「集団に貢献したい」という「道徳感情」が根本にあるという話をします。
後編の「2.神の社会学」では、その「集団の連帯感」を高めるために「社会的儀礼」が重要な役割を果たしているけど、それは昔からある「宗教」の構造と同じであることから、「宗教」の社会的な役割を解説していきます。
それでは、現代のわたしたちが社会的に要求される「合理性」の話から見ていきたいと思います。
[基本] 私たちは合理的であることを誇りにしている

わたしたちは、合理的な考えをすることで、仕事を効率的にして、無駄なことをしないで「やりたいこと」ができると当たり前に思っています。また、理性的に行動することは「とても良い」とされてもいます。
しかし、一方で「合理的に考えられたルール」で行動しているはずなのに、無駄が多くて合理的でない結果になる場合もあります。
調査をしたり、需要予測をしたりして、とても頭のいい人が「合理的」に考えて計画したつもりでも、実際は予測と異なり計画がうまくいかない場合も多々あります。どうも「合理性」だけを考えても「うまくいかないな」と思う場合もあります。
[基本] マンハイムの「2つの合理性の類型」
では、その「合理性」についてより詳しく見ていきましょう。
カール・マンハイム(1893-1947)はマックス・ウェーバー(1864-1920)に従って組織は「2つの合理性の類型」に則って行動していると指摘しています。

一つ目は「機能的合理性」です。わたしたちが普通に使う「合理性」という言葉はこちらを指すことが多く、「一定の結果がいかにすれば最も能率よく得られるかを冷静に計算する手順」のことを指します。
何かを行うとき、担当者や専門家は「その活動の目標は、他の誰かが考えることであって、自分たちは考えない」と考え、「自分たちは自分の与えられた専門領域の中での合理性を極めていく」というスタンスを取ることを指します。
つまり「自分の職務にしか関心のない専門家たちは、自分の守備範囲外のことはすべて他人事と考える(P5)」
2つ目の「実質的合理性」は、「特定の手段が特定の目的をいかに実現するかについての人間としての洞察力」(『ランドル・コリンズが語る社会学の歴史』[友枝敏雄訳者代表/1997/有斐閣]/P92)というもので、担当者や専門家が「他の誰かが考えること」思っているという「全体を考える部分」を指します。
しかし、「全体を考える」管理者は、担当者や専門家を頼りにして考えるので、「実質的合理性」に基づいた判断をしない傾向があるため、各専門分野の「機能的合理性」は満足しているけど、全体で見ると「実質的合理性」が実現できず、プロジェクトは「うまくいかない」ことになりがちです。
部分的な「合理化」は実現できるんだけど、「全体で考える」と「合理性」はうまくいかない。つまり、「合理性」は有効なんだけど、その効果は「限られた範囲だ」ということができるでしょう。
[基本] 契約には「結んだ契約を守る」という暗黙の契約がある

トマス・ホッブズ(1588-1679)やジャン=ジャック・ルソー(1712-1778)は「社会の起源」を「契約」だと考えました。その契約は「共通のルールに従い、社会的協同の利点を獲得するために、熟慮のうえで団結した人々によって太古に結ばれたもの」(P11)というものです。これは中学校などでも教えてもらったことですね。
「契約」そのものには何も問題はないのですが、コリンズは、社会学者のエミール・デュルケーム(1858-1917)の議論を引き合いに出して「契約」は「結んだ契約を守る」という暗黙の契約があることを指摘します。「契約を守ること」は「当たり前のこと」なので、改めてそう言われると納得です。
[基本] 純粋な合理性だけ考えると「欺く」方が正しくなってしまう
次に「契約を守る」「欺く」という2つのことについて、「純粋な合理性」だけの観点から比較してみましょう。

「純粋な合理性」だけを考えたら「利益を最大にすることが目的」になるので、場合分けした図を見ると最も利益が高いのは、「相手が契約を守り、自分は欺く」というのが最も利益が高いことになります。また、お互いに「欺く」を選択しても、損失はないので、「純粋な合理性」だけを考えると「欺く」立場を取るのが正しいはずです。
でも、実際の社会は違います。仕事を普通に行っていてたら、契約を結ぶときはお互いにその契約を当然守ります。つまり利益を最大化しないで敢えて「非合理なこと」を私たちはやっています。
ということは、わたしたちが結ぶ契約は「非合理な何ものか」に基づいてそうです。
[基本] デュルケームの「非合理的連帯」

さきほど、「契約」を合理的に考えると「欺く」選択肢を取ることになるので、現実の社会と異なる状況となり、「契約は非合理的な何ものかに基づく」のではないか、という話をしました。
デュルケームはそれを「非合理的連帯」と呼び、つまるところ、社会は「信頼に基づくもの」であると言います。
その「非合理的連帯」のおかげで、わたしたちは損得のような合理的な思考だけで考えないで良いからこそ、社会が機能しているといいます。
[契約社会] 無料バスの話
世の中には「フリーライド」する人がいると言われます。誰かがお金を払って成立しているものを、お金を払わないで利用することです。先程の「純粋な合理性」だけを考えたときの最大の利益が得られるパターンの「相手は契約を守って、自分は欺く」ことに似ています。

コリンズは思考実験として「運賃無料の共用バス」の例を出します。無料バスの運行費は、利用住民の任意の寄付で、乗るときにはお金は徴収されません。
先程の「合理性」で考えると、「自分以外の住人が寄付をして、自分はタダ乗りする」という選択肢が最も合理的な選択肢となりますが、みんながそう考えたら、無料バスは運行できなくなってしまいます。
もし、このようなバスが運行できるのであれば、それは「合理性」だけで考えていない人たちがいるからです。
無料のバスがうまくいくのは、ほとんどの人びとが強い無私の感覚、あるいは義務の感情を持っているか、あるいは自分たちがつくりつつある無料化社会について熱烈な感情に満たされている場合である。重要なのは、これらは合理性を超えた感覚ーつまり情動、道徳感情ーであり、合理的計算ではないということである。
『脱常識の社会学』P19
日本で言うと、「ゴミ収集場」の話に似ているかもしれません。日本ではゴミ収集場は地区の「町会」や「自治会」が管理をしていることが多く、町会などに加入している住人が交代交代でゴミ収集場の掃除をしたり、ネットを張ったり、資源ごみのボックスを出したりしています。だけど、町会に入ってなくて当番が来ない近隣の人もゴミ収集場にごみを捨てます。わたしも当番になると朝早く起きて作業をしたりしますが「義務の感情」や「ちゃんとボックスが出てないとゴミ収集場が汚くなるからという思い」でやっていると思うと、確かにコリンズの言うとおり「合理性」だけで動いていません。
[契約社会] 「商取引の形態」の変化が技術発展につながる
それでは、現代のような「信頼感情」から成立する「契約社会」はどのように成立したのでしょうか。その手がかりを掴むために、コリンズは伝統社会と中世社会との商取引と比較します。

伝統社会での商取引は、
●高度に祭礼的で非経済的なやり方
●強い猜疑心を伴うもの
で、「多くの信頼はあったが、真の経済的計算はなかった」(P27)と書かれており、経済的な考えというのは薄かったようです。
中世社会での商取引は、
●儲けるために商品を遠くから持ってくる
●真の経済的取引きがあった
●顔見知りでないから高度の猜疑心を持っていた
というように、中世になって商取引は進化したものの、まだ資本主義社会のように大規模な経済はできていない。
一般的に言って、これらの社会は、経済的生産性に必要な物的資源の欠乏のために停滞したのではなかった。(中略)これらの商人は合理的過ぎたのである。
『脱常識の社会学』P28
これらの商人は、猜疑心が強かったゆえに「合理的過ぎた」から、つまり相手を「完全に信頼」できなかったから、近代資本主義のようにならなかったとコリンズは言っています。

中世までのように、猜疑心が強すぎて「完全に相手を信頼できない社会」から「高度な契約社会」に移行したことで、近代経済が進展していくことになる。
「高度な契約社会」とは「新しい信頼の紐帯」が人びとの間で作られる社会です。人びとの間で信頼関係が結ばれるからこそ、販売も進んでいきます。
「販売の見込み」があるから「大量生産」するわけで、「商取引の形態が変化」したから、「技術が発展していった」といいます。工業技術が発展したから近代経済が誕生したのではないということです。
では、その「高度な契約社会」になぜ移行したのでしょうか?
[契約社会] ウェーバーの「プロテスタントの倫理」

コリンズは信用を基盤にする「高度な契約社会」に移行した理由として、マックス・ウェーバーの『プロ倫』を参照しています。
1517年の宗教改革によりプロテスタントが誕生します。そのプロテスタントの教義は
●正直にふるまうこと
●買い手を欺くのをやめる
ように動機付けました。それらは「純粋に世俗的な利益」を求めるのではなく教徒たちを「禁欲に向かわせ」、「天職としての仕事に集中させ」ることで、彼らは金儲けをしていきます。
彼らは禁欲的に生きているため、その利益を「自分のために使わず」投資し、投資することで経済の規模を拡大させて資本主義を実現していきます。つまり「高度な契約社会」は「プロテスタント型の宗教道徳」によって移行していきました。
『プロ倫』については、第19回のコラムで解説しているので、興味のある方はぜひご一読ください。
[権力と連帯] 国家は「正しくて強いと国民が信じる」から成立する

ここで「ちょっと待った!」という人が登場します。その人は、「商契約を守るのは、法律で決まっているから守っているだけ」なんじゃないか?と言います。それでは「法律とはなにか?」ということを考えると「人々が国家と結んだ契約」だということになる。
また「命令を守るのは、国家に罰せられるから守っているだけ」とも言います。しかし、それは国家があるから機能しているだけだ。
つまり、国家が成立しないとこれらの反論は意味がありません。
そして国家が成立するためには、「国民が国家との契約に同意」していないと成立できません。その契約の基盤はなにか?というと、先程の話のように「合理的」ならば「信頼」や「連帯」が成立できず組織が作れないことから、「非合理的連帯」で成立していることを認めざるを得ません。
それでは、国民は「何を信じて」契約に同意しているでしょうか?

ウェーバーは「国家の基礎はその正当性にある」といい、「国家は正当で強力」であることを「国民が信じて共有する」から国家が成立するといいます。
つまり、国家が「正しくて強い」から契約に同意するということです。国家は「正しいこと」や「強いこと」で「国民を守ってくれる」から、私たちは「国を信じて」自ら進んで契約に同意するわけです。
だから、国家は「国民の信念」によって成立する。その信念がなければ、警察も裁判所も成立しないから、罰も成立しません。
[権力と連帯] 集団を維持させるには「連帯感情」が必要

国家のように「信念」を「共有」することで集団ができていって、「共通の感情」がその集団のアイデンティティを作り上げていきます。
その集団を維持するには「連帯」し続けることが重要となり、そのためには「集団に貢献したいという気持ちを起こさせるような非合理的感情を彼らがともかく共有することが必要」(P34)だと言います。
また、「連帯感情」を持つ集団は、自分たちとアイデンティティが異なる集団を敵と位置づけることで、さらに「連帯感情」を強化していきます。
「連帯感情」の強い力は「集団の結束力」であるため、「自分の利益を最大化する合理的計算」より深いレベルで人間の中に染み込んでいきます。あまりにも強いため「連帯感情」を使うことで集団をコントロールすることができてしまいます。
人は他人の連帯感情につけこむことによって、彼らを支配することができる。他人に自分は本当にその人たちの仲間であると信じ込ませることができる人なら誰でも、その人たちをうまく利用するチャンスをもっているといえる。最高の成功を収める収奪者は、他人に、自分が心の底から一番彼らのことを思っているのだと感じさせる人である。(中略)連帯感情は、自己利益の合理的計算よりも深いレベルでしばしば人びとのうちに呼び起こされる。
『脱常識の社会学』P36-7
そしてこれらの「連帯感情」を作り出すための装置として「社会的儀礼」が存在します。次から展開される「宗教」の話はデュルケームの社会儀礼論をベースに進んでいきます。
[宗教の基本] 宗教は「何か現実的なもの」を象徴的にあらわしている
コリンズは、「2.神の社会学」で宗教について分析していきますが、最初にこの本は宗教を社会学的に分析していくことに注意します。「この信条は○○だ」という価値は「人によって異なる」ため、社会学的な立場としては価値自体は自由(価値自由)なので、信条の内容については除外したうえで、宗教の共通している項目を探ろうとします。

デュルケームは無神論者であったため、「神が存在する根拠はない」と考えていましたが、「どうしてこの種の信念が今日なお多くの人びとの間で支配力を持ち続けうるのか」(P48)という疑問を抱いていました。
そしてその理由を「宗教は何か現実的なものを象徴的に表しているから」だと考えます。宗教支配力を持つのは「象徴している現実的なもの」に「多くの人が共感している」からです。
その「現実的なもの」は、「個人よりもずっと強い何か」ではないかと考えていきます。
[宗教の基本] 宗教の共通基盤は「特定の信念」と「特定の儀礼」だ

あらゆる宗教に共通しているものとして、
●すべての信者が抱いている特定の信念
●信者たちが集合的に行う特定の儀礼
の2つをデュルケームは挙げます。
基本的な「宗教的信念」は、世界を「聖と俗」に2分割して考えます。その上で、聖なるものは「危険」で「最高度に重要」だから、「聖なるもの」に近づく場合は、
●厳粛な態度で、
●敬意を持って
●適切な準備をする必要がある
といいます。
その信念を「行動」にするために「儀礼」が登場します。その儀礼は、具体的には、●お祈りをする、●讃美歌を歌う、●儀式的なダンスをする、●列をなして更新する、●偶像の前にひざまづく、●十字を切る、などの行為を指します。これらは各宗教が定めた「正しいやり方」で行われる必要があるため、「形式」が重要になります。
つまり、儀礼とは「聖なるものの前での行動の手順」のことを指します。
[宗教の基本] 象徴的に表現される「何か現実的なもの」とは?

あらゆる宗教に共通しているものは「信念」と「儀礼」でした。そして「信念」は世界を「聖」と「俗」の2つに分割して考えましたが、そもそもなぜ分割したのでしょうか?
自然界には世界を「聖と俗」に分ける物質は存在しません。だから、人間が何らかの理由で、「世界を分割して考えた」と理解するのが妥当です。
実際の生活では、人びとは「何か強い力」により動いていると感じていたから、それを「聖なるもの」と考えます。
その「聖なるもの」を人びとが勝つことのできない「超自然的なもの」「危険なもの」と位置づけ、「従いたくなる/従わざるを得ない」ように思わせて、人びとの秩序を作っていくのが宗教です。
デュルケームは、その「現実的で強い力」は自然界には存在しない「社会そのもの」だと言います。なぜなら、わたしたちは「社会」に従うことで秩序が維持できるし、「社会」は強い力で私たちを攻撃したりもします。また「社会」は「過去の人びとの実践の積み重ね」でもあり、実態は存在しないですが、私たちの世界に存在する「強い存在」です。また、「社会」という言葉を「社会の権力」に置き換えたほうが理解しやすいかもしれません。
宗教が表していたものは「社会そのもの」で、「聖なる神」は「社会の権力」を象徴しているものです。
[宗教の基本] なぜ人びとは道徳的感情をもつのか?

コリンズは、宗教は「道徳的な力」だと言っています。「正邪に関する観念」は集合的なもので、
●禁止していること
「殺すこと」「嘘をつくこと」「盗むこと」
●積極的に命じていること
「隣人を愛して助けること」
のように、人間の相互関係のルールを定めています。そして、これらの「正邪の観念」は自分にとっての利害関係とは関係なく、従うことを要求されます。
道徳の観念そのものが、いかなる特定の個人をも超えた力、個人にさまざまなのことを要求し、違反すれば処罰する力、を含意している。これらの要求と処罰は日常の実際的な性質のものではない。私たちは、自分にとってそれが有益であるか有害であるかとうこととは無関係に、道徳的義務に従うことを期待される。
『脱常識の社会学』P57

道徳について理解するために、キリスト教の「天国」と「地獄」が表している意味を見ていきます。
天国は、「集団の良き成員」として「道徳的に正しく」あれば、その報酬として「集団への所属感」が得られ、それが天国の意味です。
その反対に地獄は、集団のルールを守ることができないから、集団から除名され、罰として「社会の所属から締め出される」ことになります。

どうも道徳は「集団への所属」と関係のある概念であることが分かります。引き続いて「なぜ道徳の戒めに従うのか」の理由として、
●集団が要求するから
●個人が集団に所属したいとの望んでいるから
の2つを挙げています。
このように自発的に道徳に従おうとするのは、社会的結合を希望するからだといいます。
道徳に違反する行動をすると、その罰として社会(集団)から締め出され、生き辛くなってしまいます。
[連帯感の維持] 集団に所属して得られる「隠れた利益」
人々が自発的に道徳に従おうとするは、「集団への所属願望」に起因するのではないか、とデュルケームは話をしていました。そして集団への所属願望は、キリスト教的に考えると「天国に行きたい」というのが動機でした。現在は多くの人々は宗教的には考えず、動機はキリスト教徒と異なると思いますので、次に「集団に所属するメリット」、つまり「集団に所属したい」と思う動機を見ていきます。
集団に所属することの主要な利点のひとつは、あまりにも身近なので、ともすれば見逃されがちである。それは、触知できない無形のものではあるが、まったく現実的なものだ。すなわち、高揚した社会的集まりに参加することによってえられる感情的エネルギーがこれである。
『脱常識の社会学』P59

主なメリットは「感情的エネルギー」を得られることだと言っています。
集団でいるときは、自分は「強くなった」ように感じます。それは自分が「強力ななにかの一部をなしている」からです。個人で戦うより、大勢で戦う方が、共感できる人が周りにいるので、テンションも高まり、勝てそうな気がします。
それと同時に、自分は「道徳的に正しいことをしている」と感じがちになります。自分の私利私欲だけで行動しているわけではないからです。
そんなことを意識的に考えている人は少ないと思いますが、確かに、「自分は強い!」「道徳的にも正しい!」と感じることができれば、安心して自信を持って自分から行動できそうです。
集団的状況にプラグをつなぐことで、個人は以前よりも強力で目的意識のはっきりした人間になることができる。宗教やその他の世俗的な等価物が、いつまでも魅力を保ち続けているのは、このような隠れた利益のためである。
『脱常識の社会学』P62-3
コリンズは、宗教や世俗的な等価物(会社や趣味の集まり)などが支持を得ている理由は、この「隠れた利益」のためだと言います。
[連帯感の維持] 社会的儀礼の一般モデル

ここまでの基本要素を整理してみると、「社会的儀礼」の一般モデルは大きく2つになります。
●社会的エネルギーの変換機構の公式
●社会的理念や象徴の創造機構の公式
です。
それらの機構の要素は
●「集団」は集まる必要がある
●「儀礼化された行為」は連帯を意識させる
●「集団」のシンボルは「信念」を客体化する
と整理できます。
「儀礼」と「シンボル(象徴)」の2つの道具で、集団は連帯感を高めていきます。
「行為」と「モノ」で集団の連帯感を高めることができるのは、自分が所属している業界(界)を考えるとすぐに理解できます。たとえば、プログラマーなどでは、「プログラム言語の書き方」が行為で、「コンピューター」がモノです。「弊社の記述方法は軽量化できる○○で、ハイスペックな〇〇製のハードウエアを使う」とかです。そのルールだから品質を保つことができると。プログラマー自体もその環境だから自信を持って作業ができ、自分たちのチームを誇りに思うようになります。その2つが古い仕様のままだと、他の会社よりも劣っていると感じ業務にも影響を与えます。
[連帯感の維持] 儀礼のムードが「感情エネルギー」を生み出す

チームの構成員は集まることで「集団」となります。人びとが「儀礼をする場所」に集まり、「儀礼」をしているときに感じる厳格な雰囲気・ムードそのものが「連帯」を感じさせる最も重要な要素といいます。
「聖なるものに」従わざるを得ない状態だとしても、「従った見返り」として「安全と感情的な力強さ」を与えてくれます。
そのパワーは「神聖な実体という観念」=「理念」であり、「集団的なアイデンティティの感覚」そのものだといいます。
みんなで集まって「儀礼」を行うことで、「神」は「安全と感情的なパワー」を人びとに与えてくれ、それにより集団のアイデンティティがより強くなっていくことだと思います。
[連帯感の維持] 儀礼ができないときは「象徴・シンボル」で感情エネルギーを維持する

しかし、集まって儀礼を行わなくなると「安全と感情的なパワー」は人びとから消えていってしまいます。
「この感情生産機構は、時が経つうちにその電圧が落ちてくるので、ときどき周期的に運転してやらねばならない。」(P66)と書かれているように、定期的に「集まって儀礼」をする必要があります。
その電圧低下を下げる道具として「象徴/シンボル」が役に立ちます。シンボルは「木彫りの標徴」や「十字架」などを指し、それらも神聖なものとされます。なので、次のイベントまでは「シンボル」を拝んだりすることで電圧低下を防ぐことができます。
「象徴/シンボル」は、「聖なるもの」を見えるようにして、いつも人びとの近くに置いて「気分を高める」ものです。人は「見たもの」で判断するため、それらが目に見えることが重要になります。かつては、絵画や仏像が人びとの「象徴グッズ」でしたが、現代の時代でも「推しグッズ」などは、身につけることで自分の「気分を高め」ると同時に、「仲間」であることを表し親近感を感じ、連帯感を得られるような存在に思われます。
[近代的自我] 社会が大規模になると「個人化」が進む
さきほど見たように「聖なる神」は「社会」を象徴しているものでしたが、それでは異なる社会には、異なる「神」がいるということになると言います。コリンズは、そのことを社会を比較して見ていこうと言います。

「狩猟採集社会」は、小規模で、富の所有も階級制もなく、「年長の男性が女性と若い男性」を支配するだけの社会といい、宗教自体は「男性のみ」で行います。
「農耕社会」は、大規模になり定住的に活動します。農耕により富の蓄積が登場し、大部分は女性が生産し、女性は経済的にも中心的な役割を果たします。なので、聖なる教義も「神秘的な女性」に関係し、宗教的儀式も女性が重要になります。
古代ローマ帝国や、同時代のインド、中国、ペルシアなどでは、様々な神は「唯一の神=唯一の神秘的状態」になり、キリスト教やヒンズー教、道教、儒教などのように「世界宗教」が生まれてきます。
これらの宗教はそれぞれ、唯一の神、唯一の悟りの状態、あるいは唯一の道しか存在しないと主張する。他の神々はすべて偽りか幻想である。要するに、このタイプの宗教は、普遍的であることをめざす。それは、合理化され知的に洗練された社会、そして強大な政治権力をもつ社会に対応する宗教である。
『脱常識の社会学』P76-77
つまり、現代の社会では「普遍的なことを目指す」教義を持つ宗教が主流となります。このように、時代によって、確かに「聖なる神」が表している象徴は変わっています。
時代が経過するにつれて、人びとは「小規模な集団の社会」から「大規模な集団の社会」に移行していきました。そしてローマなどの帝国時代になると、政治などが行われるようになり、社会の形態が変わっていきました。

「社会」が大規模になると「神」はますます「偉大な存在」になって、人びとからの距離が遠くなっていきます。そうなると、リアリティがなくなってくるため「抽象的な存在」でしかなくなり「擬人的要素」が消滅していきます。
それらは「道徳的な概念」のみが残るようになり、「神の観念は人間性という一般概念に転化」(P80)していきます。それらの一般概念は、「人類の幸福」や「社会の維持または改善」というテーマに集約されていきます。
さらに近代の産業社会では分業化も進んで行くことも同時並行で進んでいき、宗教の抽象化とあわせて「個人化」が進んでいきます。
[近代的自我] ゴフマンの「相互作用儀礼」

神が抽象的な存在になって、宗教的儀礼や信念が社会から消えていきましたが、コリンズはカナダの社会学者のアーヴィング・ゴフマン(1922-1982)を登場させ、現代でも「儀礼」は全然残っているといいます。
ゴフマンは現代でも残っている「儀礼」を「相互作用儀礼」と呼び、それは日常的な会話の中で生じるもので、「礼儀にかなった丁寧さ(ポライトネス)」の言動に残っているといいます。
「相互作用儀礼」で崇拝する対象は「個人の自我」であるといいます。
あなたの自我は、あなたが抱く観念であり、同時にまた他の人びとがあなたについて抱く観念でもある。とすれば、違った種類の社会的相互作用のもとに置かれた人びとは、違った種類の自我を身につける、ということになる。違った種類の社会とその宗教についてはすでに大まかな比較検討を試みたが、これに対応する形で、それぞれの社会において人びとがどのような種類の自我を身につけるかについて比較検討してみることもできよう。
『脱常識の社会学』P83
「個人の自我」を崇拝する儀礼とは何か?それを理解するために、「社会と宗教」の比較と同様に、「社会と自我」の比較をしようといいます。
[近代的自我] 「相互作用儀礼」は「個人的自我を賛美する儀礼」である

部族社会や農耕社会では、自我は存在しません。これらの社会では、集団で生活することを重視し、個人がどうこうというより、集団として生きることが最も重要でした。
現代社会では「各個人が内面の自我をもつ」ことが当然とされ、法律でも「各個人が自分の行為に責任を負う」ことが当たり前となっています。
それは「貨幣経済の発達」や「自由主義国家の誕生」、「科学技術の発達」などが起因して「個人が自我を持って生きる」姿勢が当然の権利として成立してきたからです。

この「近代の個人主義」は
「個人であることを許されているだけではない。個人であるべく期待もされているのだ。このことに関しては社会は私たちに選択の余地を与えていない。」(P85)
とされるように、自分が「個人として生きるのに自信がないなぁ」と思っても、強制的に「個人として生きることが正しい」と信じることを要求されるわけで、それはまるで「宗教的信仰」だといいます。
先ほど説明した「道徳」の話に似てきました。
「宗教的な道徳」も「集団に所属することを希望するなら守る必要がある」というものでしたが、集団で生きることが当然の社会では、その「守る」以外の選択肢はない。「個人の自我」も「集団に所属することを希望するなら守る必要がある」もので、それを「信じる」以外の選択肢はないという意味で似ています。
そして、「個人の自我」を崇拝する「相互作用儀礼」でも、道徳の話(P56-59)と同様に、特定の儀礼によって成り立ちます。具体的には、「相互作用儀礼」は「お互いを気遣うマナー」という儀礼です。
この「相互作用儀礼」は行う場によって異なる「形式/行動様式」を持つこととなり、その行動様式の違いは階層を作り出します。たとえば、上司の前と仲間の前、クライアントの前と同僚の前では異なる行動様式で振る舞います。「相互作用儀礼」については、第20回のコラム『日常生活における自己呈示』にて取り上げています。
おわりに
すべての契約は非合理的な「信頼」から成り立って、その「信頼」があるから社会は成立している。国家も資本主義も「信頼」がないと存在することができない。宗教も「信念」を信じ、その意思表明を行う「儀礼」によりその集団が連帯し維持できる。そして、現代の「相互作用儀礼」も「個人崇拝の信念」を信じ、それを表現/呈示する「儀礼」を行うことで、社会集団が連帯し秩序を維持している。
宗教では「道徳」が連帯の約束としてあり、現代社会では「個人主義」が連帯の約束としてある。それらは共に、その約束とは反対の選択肢は選ぶことができない半強制的な約束として存在していると感じます。その半強制的な約束のあり方が宗教的だと言うことができそうです。「道徳」も「個人主義」もどちらも純粋に考えると理想的なものだけど、それを「社会から要求される」がゆえに、自由ではないあり方で存在する点が興味深い点でした。
今回取り上げた2つの章は、ページにしたら93ページと100ページにも満たない内容でしたが、個人的には、わたしたちの生活の基本となる、いろいろな基礎的な要素が詰まっている内容だと思いましたので、多めに取り上げてしまい長くなってしまいました。取り上げた部分は、ほとんどがデュルケームの議論を踏まえた内容の話でしたが、デュルケームの視点から眺めた社会と思いつつも、とても面白い見方でしたので、興味を持たれた方はぜひ読んでみてください。
また、デザインと関わる部分としては「象徴/シンボル」の部分で、ターゲットユーザーの集団が「崇拝しているもの」「道徳的に理想としているもの」「気分を高めるもの」がシンボルのスタイルや造形を考えていくうえ重要だと感じました。これらをデザインするには、その集団の「連帯感情」が何か?を定義することを最初の作業にして、そこから「連帯感情」をカタチにするために試行錯誤して発見していく作業を丁寧に行う必要がありそうです。

最後に、『脱常識の社会学』に興味を持たれた方は、『ランドル・コリンズが語る社会学の歴史』(友枝敏雄訳者代表/1997/有斐閣)もオススメです。
コリンズがデュルケーム好みなので、デュルケームの理論が妥当性を持つという話をしているものの、歴史的な流れや、過去の理論などの優れた点、課題点などを整理していて『脱常識の社会学』同様に読みやすい本です。なにぶんコリンズは膨大な知識量を持つため、ついていくのが大変な本ではありますが、衒学的な書き方はしていないので、気持ちよく読むことができます。
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著者について

鳥居 斉 (とりい ただし)
1975年長崎生まれ。京都工芸繊維大学卒業、東京大学大学院修士課程修了、東京大学大学院博士課程単位取得退学。人間とモノとの関係性を重視した、製品の企画やデザイン・設計と、広報、営業などのサポートの業務を行っています。
2013年から株式会社トリイデザイン研究所代表取締役。芝浦工業大学デザイン工学部、東洋大学福祉社会デザイン学部非常勤講師。
詳しくはこちら
コラムでは製品を開発する上では切り離せない、経済学や社会学など、デザイナーの仕事とは関係なさそうなお話を取り上げています。しかし、経済学や社会学のお話は、デザインする商品は人が買ったり使ったりするという点では、深く関係していて、買ったり使ったりする動機などを考えた人々の論考はアイデアを整理したりするうえでとってもヒントになります。
また、私の理解が間違っている箇所がありましたら、教えていただけると嬉しいです。デザインで困ったことがありましたらぜひご相談ください。
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