M.ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読む [コラム019]
![マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読む[コラム019]](https://torideken.com/u52gv4vrb4jh/wp-content/uploads/2025/07/250706-protestant-ethic-01.jpg)
コラム第19回目は、マックス・ウェーバー(1864-1920)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(中山元訳/日経BP社)(原書初版1905/1904)を取り上げたいと思います。この本は国際社会学会が選定した「20世紀の社会学で最も重要な10冊」に選ばれており、『ディスタンクシオン』『文明化の過程』に続き、本コラムでは3冊目になります。
この本は、社会学、経済学ともに古典としてとても有名な本ですので、ここで敢えて取り上げなくてもよいと思ったのですが、今の資本主義社会で生活している私たちがごく当たり前だと思っている「仕事をすること」「合理的に考えること」「金儲けをすること」などが普遍的なことではなく、しかも産業革命以前に作られた概念で、合理性とは関係なさそうな「宗教の倫理」と関係しているかもしれないという話が面白かったので取り上げました。
カール・マルクス(1818-1883)の「生産手段や技術」に合うように「社会の文化や考え」が作られたという「史的唯物論」とは逆の思想で、個人的にはウェーバーの「資本主義の精神」が先にあって、「史的唯物論」がそれに続いて社会を作り上げていくのかなと思いました。

この本のテーマは、「資本主義がなぜ西欧だけで進化したのか?」です。近代以前にすでに中国や他の国々でも金を儲けること自体はあったが、産業革命が起こったりはしなかった。
「それはなぜか?」というのがテーマで、「ただ単に拝金主義的に金儲けをしたい!という動機だけでは、産業革命などには結びつかない」という仮説を立てているのが面白いところです。そしてその違いは、「金儲けをするための動機」にあると言っている。
途中で伝統主義と資本主義の人々の考え方を解説しているところがあります。
そこでは、伝統主義の人たちは「いまを重視」して、資本主義の人たちは「未来を重視」していると言っているように私には聞こえました。伝統主義の問屋は農家が作った織物を仲買商人に売るだけでしたが、資本主義の資本家たちは、「農家にエンドユーザーが求めているものを作るように依頼」して、「自らエンドユーザーに販売する」ような人たちでした。
今で言う、自社ブランドを立ち上げて、オリジナルな付加価値がついた製品を少量生産で製造してもらって、自分たちでネットで販売する人たちみたいです。そういう「未来を重視した姿勢」が社会を動かしていると感じます。こういう「動機=心構え」、つまり「資本主義の精神」があることがプロテスタントに見られた、と言っています。そのプロテスタントの精神が資本主義の原動力の一つになったと言えるかもしれない、というのがウェーバーが言っていることです。
そんなことを考えたことがなかったので、面白いですよね。わたしはプロテスタントでもなく、なにかを信仰していたりしませんので、最初はイマイチ理解できませんでしたが、理解できると面白いので、このコラムでは、私なりに理解した「資本主義の精神」「プロテスタントの倫理」を中心にできるだけわかりやすく解説したいと思います。
また、本書は『プロ倫』と省略して言われることが多いので以下は省略して表記します。
もくじ
- この本の基本的なストーリー
- この本の構成
- カトリックとプロテスタントについて
- プロテスタントの5つの宗派についての基本知識
- [最初の疑問] 資本家にはプロテスタントが多い?
- [資本主義の精神の例] フランクリンの「金儲け自体がゴール」
- [資本主義の精神の例] 「自分の利益優先の社会」は経済発展が遅れがち
- [伝統主義の精神の例] 時給を上げると短時間しか働かない労働者
- [資本主義の精神の例] 自ら職人を管理し、エンドユーザーに直接売りに行く実業家
- [資本主義の精神] 資本主義的な前貸問屋はこんな人だった
- [資本主義の精神] 金儲けをすること自体を天命と思う
- [ルター派] 天職(Beruf)の概念の誕生
- キリスト教の基本は「神の愛」と「救い」を説くこと
- [カルヴァン派] 予定説とは?
- [カルヴァン派] 救われていることを知るための方法が登場!
- 西洋の禁欲概念は歴史的な土台があった
- [禁欲と資本主義の精神] 富の所有、時間の浪費、性的な誘惑、労働意欲の欠如はNO!
- [禁欲と資本主義の精神] 神が「利益率の高い仕事」を要求する
- [禁欲と資本主義の精神] 「富の所有」と「職業の営み」の正当化の完成
- [禁欲と資本主義の精神] やはり「富の誘惑」には勝てない
- [禁欲と資本主義の精神] 禁欲を失う実業家、禁欲を貫く労働者
- [いまの社会] 「金儲け」が「鋼鉄の檻」のようにわたしたちを縛る
- [いまの社会] 「金儲け」がスポーツのようにハイスコアだけを狙う競争となる
- おわりに
この本の基本的なストーリー
最初に『プロ倫』の基本的なストーリーについて書いておきます。

1)資本主義が発達したエリアの金持ちはプロテスタントが多いことに気づき、プロテスタントと資本主義を歴史的に見ていくことを決断する。
2)資本主義の精神って何か?をフランクリンの言葉を引用して説明する。
3)禁欲的プロテスタントは、予定説に基づいて、金儲けを「神から与えられた使命/天職」として合理的に計画的に日常生活を送る倫理観を持っていたから、まさに資本主義の精神だ!
4)そのうち、宗教的な倫理感が消えていって、金儲けをすることが、「鋼鉄の檻」のように私達を襲うようになる。そして、人生はスポーツのようにハイスコアだけを求める競争となる。
というのが、『プロ倫』の基本的な流れです。プロテスタントの倫理が資本主義をドライブさせた、という理解で間違っていないと思います。ただウェーバーも言っていますが、プロテスタントの倫理だけが発展させたわけではなく、あくまでも資本主義の原動力の一つとして言えるのではないか、と言っているだけです。
この本の構成

この本は第一章と第二章に分かれていて、1904年に第一章が書かれて、第二章が1905年に書かれています。
第一章では、
●資本主義とプロテスタントは関係ありそう?
●資本主義の精神って何か?
●仕事を「天職」と定義したルターの話
第二章では、
●カルヴァン派の予定説の話の説明
●その他の禁欲的なプロテスタントの話
●資本主義とプロテスタントが似てる話
●まとめ
という構成になっています。第一章-1節、2節、第二章-2節に目を通すだけでおおよその骨格は見えてきます。第一章-3節、第二章-1節は、各宗派の重要視している点などを細かく解説し、根拠を示している部分なので、読んでみるとさらに説得力を感じます。
カトリックとプロテスタントについて
わたしは『プロ倫』を読むまでは、プロテスタントは「カトリックの免罪符を許せないマルティン・ルターが1517年に宗教改革をして誕生した宗派」くらいの知識しかなく、そもそもカトリックとプロテスタントが何が違うかさえも、興味がありませんでした。それらの違いについてそれほど理解してない人も多いと思いますので、本題に入る前に簡単に説明しておきます。


禁欲についても、カトリックは修道院の中での「世俗外禁欲」、プロテスタントは日常生活での「世俗内禁欲」として理解します。なので、カトリックは修道院以外では禁欲を重視せず、プロテスタントは日々との生活で禁欲を重視するので「厳しく」生きているといえます。
ちょっと注意しないといけないのは、日本で禁欲というと「厳しい修行をする」的な意味合いを持ちますが、西洋での禁欲というのは、「合理的に計画的に生きる」「欲望に踊らされず冷静に生きる」的な意味なので、日本語でいうと「きちんとする」という言い方がぴったりかと思います。
個人的にはカトリックは学校や会社みたいだと思いました。学校や会社では校則/規則に縛られて「きちんとする」けど、会社や学校を出ると「ゆるく生活する」感じのイメージかと思います。それに対してプロテスタントは、いつも厳しく「きちんとする」。プロテスタントの人は学校から家に帰って、テレビの前でゴロゴロしながらお菓子は食べない感じがします。
プロテスタントの5つの宗派についての基本知識

プロテスタントはカトリックと違って、一つのピラミッド型の組織ではなく、さまざまな宗派が独立して存在しています。そうなるとプロテスタントとひとことで言っても様々な宗派が存在します。
『プロ倫』で登場するプロテスタントの宗派について、最初におおまかに理解しておくと、内容が理解しやすくなりますので、簡単に紹介しておきます。
『プロ倫』では、ルター派と、禁欲的プロテスタントの4つの宗派、カルヴァン派、敬虔派、メソジスト派、洗礼派の5つを取り上げています。
1)ルター派
マルティン・ルター(1483-1546)が宗教改革を最初に行ったのと、「神に与えられた使命としての職業」という意味の「天職」という概念を生み出したという点で紹介されます。ドイツや北欧で広がる。
2)カルヴァン派
ジャン・カルヴァン(1509-1564)がジュネーブで立ち上げた宗派。『プロ倫』では最も重要な宗派で、禁欲的に生きる動機としての「予定説」が強力に作動する。フランス、オランダ、イギリスで広がる。16世紀に誕生するが、ルター派とは違う厳格さを見せる。
3)敬虔派
ルター派の牧師のフィリップ・シュペーナー(1635-1705)によって広がる。ルター派から派生した宗派で、教理よりも信条を重んじる。日常生活を禁欲的に生きる傾向がある。労働者、役人、自営業者などの比較的、生活に余裕のある人たちが支持層。
4)メソジスト派
ジョン・ウェスレー(1703-1791)が創始者。敬虔派のイギリスやアメリカ版。禁欲的な日常生活と、救いの確かさを自己確認するときの感情的な高揚を重視した。産業革命時の労働者に多かった。
5)洗礼派
カルヴァン派に並んで禁欲を最重視する教団(ゼクト)。小規模な集団で活動し、自分の意志で「信じたい」と思う人々が集まる集団。アメリカではクエーカー派などが有名。
敬虔派、メソジスト派はルター派の派生以上のものはなく、『プロ倫』でのプロテスタントの倫理は、カルヴァン派の話が中心です。洗礼派は、小規模な集団が多く資本主義との関連は薄いとされています。
長くなってしまいましたが、『プロ倫』を読むための前提知識を説明しました。それでは「資本家にはプロテスタントが多い」という、スタートの話から見ていきましょう。
[最初の疑問] 資本家にはプロテスタントが多い?

ウェーバーは職業統計を調べてみたら、資本家や企業の所有者だけでなく、近代的な企業のスタッフで技術的な教育や商業的な教育を受けている人たちはプロテスタントが多いということに気がついた。
カトリックの子どもは手工業のマイスター(親方)になる傾向が強いのに対して、プロテスタントの子どもたちは、工場に就職して管理職になったりする傾向があったみたいです。
自然科学系の高校や、実業系の高校に行くプロテスタントの子どもの割合も50%を超えていたりするデータを参照しながら説明しています。
ドイツのうちでも、さまざまな宗派が信仰されている地域の職業統計を調べてみると、ある現象が突出していることに気づくものであり、(中略)資本家や企業の所有者だけでなく、教養の高い上層の社員たち、特に近代的な企業のスタッフで技術的な教育や商業的な教育を受けている人々のうちでは、プロテスタント的な性格の強い人々が圧倒的多数を占めるということである。(中略)資本主義が本格的に発達し始めた時期に、住民たちの間で社会的に異なる層が形成され、明確に異なる職業に分化していったところでは、こうした分化が進めば進むほど、信仰統計でこうした現象がさらに顕著な形で確認できるのである。
中山訳(日経BP) P9-10 / 大塚訳(岩波文庫) P16
第一章の最後の方で、ウェーバーはプロテスタントは「経済的な合理主義を好む特別な傾向を示してきた」(中山訳 P23)と書いており、近代の「資本主義の精神」と、「プロテスタントの倫理」に親和性がある可能性があり、それを解明したいと書いています。そして、第二節では最初に、そもそも「資本主義の精神」とは何か?を定義していきます。
[資本主義の精神の例] フランクリンの「金儲け自体がゴール」
ウェーバーは資本主義の精神の例として、「宗教的なものとの直接的な関係がまったく存在しない」のと「資本主義の精神を語っている」という理由から、ベンジャミン・フランクリン(1706-1790)の『若き商人への手紙(Advice to a Young Tradesman)』の「時は金なり(Remember that Time is Money)」を引用します。

有名な「時は金なり」という言葉で始まる文章です。だけど、ここしか知られていないと思います。時間を無駄遣いしてはいけないよ、有効に使わないとお金が稼げないよ、という意味でフランクリンはいいます。
続いて「信用は金なり」といい、信用がないとお金を借りれない的な話をしています。ほかには「支出と収入の両方を正確に記帳」することをおすすめしています。ここまでは普通に生活している人からすると理解できるのですが、普通に生活しているとあまり馴染みのない「金が金を生む」という投資的な側面も強調し、だから無駄使いをしてはいけない、といいます。
※ここで言う投資とは、株や不動産なども含むと思いますが、新しい事業を行うための設備や人などの投資という意味で言っていると思います。
フランクリンの考えは「人に信用されて立派な人柄になるという理想であり、何よりも自分の資本を増やすことを自己目的とするのが各人の義務であるという思想である」といい、自分の利益や幸福のために金儲けをするのではなく、「金を増やすこと自体を道徳的な義務とみなす」と考えることを資本主義の精神の本質(資本主義のエートス)とだとします。なぜ「道徳的な義務なのか?」というと、「金は使うとそれで終わりだけど、投資に使うと、どんどん増えていって未来に結びつくから」という感じだと思います。
(フランクリンの)この「倫理」の最高善は、あらゆる無邪気な享楽を厳しく退けてひたすら金を儲けることにある。そこにはいかなる幸福主義的な観点も、快楽主義的な観点も存在しないのであって、それが純粋な自己目的として考えられているのである。これは個人の「幸福」や「利益」などをまったく超越したものであり、およそ非合理的にみえるほどである。利益を獲得することが人生の目的そのものと考えられているのであって、人間の物質的な生活の欲求を充足するという目的を実現するための手段としては考えられていない。(中略)じつは資本主義にとってきわめて核心的な思想であって、資本主義の雰囲気に馴染んでいない人には、理解しがたいことだろう。しかしそこには、特定の宗教的なイメージと密接に結びついた感じ方が秘められている。
中山訳(日経BP) P54-55 / 大塚訳(岩波文庫) P48-49
ここでは、金を増やすための「職業を義務」として考える「倫理」が、資本主義を動かしている核心的な原動力と定義していることが重要になります。
それでは次に「資本主義の精神」をさらに理解するために、「資本主義の精神」持たない場合の例を見ていきましょう。
[資本主義の精神の例] 「自分の利益優先の社会」は経済発展が遅れがち

「金儲けをする」こと自体は、資本主義の前から普通にありましたが、「自分の利益を最優先する」ような倫理を持つ国が多く、そのような国では経済が遅れがちになり、資本主義は誕生しません。
しかし、イギリスやフランスのような「職業を義務」として考える倫理として持つ人々が多い社会=国は、資本主義が発達しました。
金儲けしたい!と思っている国では資本主義は発達せず、「利子を取るのは罪」と考えるようなキリスト教の信徒が多い国で、資本主義が発達していくという、わたしたちがイメージする考えとは逆のことが起こります。
西洋の発達を尺度として比較すると、市民的な資本主義の発達が「遅れがちな」諸国にみられる何よりも顕著な特徴は、営利活動において、自分の利益を何よりも優先するこうした絶対的な厚かましさにある。工場の経営者であれば誰でも知っていることだが、こうした諸国の労働者には(たとえばドイツ人と比較した場合のイタリア人には)、「良心」が欠けているのである。これがこうした国の資本主義の発達にとって重要な障害となってきたのであり、ある程度は現在でも障害となっている。
中山訳(日経BP) P62 / 大塚訳(岩波文庫) P53-54
イタリア人のみんながそうでないと思いますが、イタリア人のイメージは「計画を立てて予定を組んで無駄遣いをしない」というのとは間逆な感じもします。さらに「資本主義の精神」を持たない労働者の例をみていきましょう。
[伝統主義の精神の例] 時給を上げると短時間しか働かない労働者

現代では、繁忙期になると時給を上げたりして、臨時的に雇用し、欠員を出さないようにするのが普通ですが、資本主義が発達する前は「伝統主義的な労働者」が多い工場では、労働者が勤務時間を減らして帰るようになり、生産量を上げたいのに逆に下がることが多かったようです。
これは、給与が増えることよりも、自分の時間を増やすことを優先したことによる現象です。伝統主義的な労働者は、資本主義の敵となり、資本主義の最初の実業家たちは、この問題と闘うことになります。
しかしここで奇妙な問題が発生した。出来高賃金率を増大させても、期待したように一定期間のうちの労働の量が増大するのではなく、かえって低下するという現象が顕著だったのである。出来高賃金率が高くなると、[仕事の量を減らしても、同じ賃金が獲得できるために] 労働者はこれに応じて一日あたりの仕事の量を増やすのではなく、減らすという反応を示したからである。
中山訳(日経BP) P77 / 大塚訳(岩波文庫) P64
2025年の現在でも、「伝統主義的な労働者」と「資本主義的な労働者」が共存していると言えるでしょう。次に、「伝統主義的な実業家」と「資本主義的な実業家」の比較を見ていきましょう。
[資本主義の精神の例] 自ら職人を管理し、エンドユーザーに直接売りに行く実業家
産業革命が始まる以前に、すでに「資本主義の精神」を持つ実業家が登場したとウェーバーはいいます。その例として、「亜麻織物の前貸問屋の話」をします。ここでは前貸し問屋は普通の「問屋」だと思っていてください。

伝統主義的な前貸問屋は、農家や職人が持ってくる商品を購入し、仲買商人が調達してエンドユーザーに販売する役割を果たす職業です。つまり、伝統主義的な前貸問屋は、ただ座っているだけ、閉店になれば、飲み屋に行ってビールを飲むような質素な生活を送っていました。
それに対して、資本主義的な前貸問屋は、自ら農家や職人のところへ足を運び、消費者の好みの製品仕様を伝え、職人を管理して生産を管理し、消費者のところ自ら足を運び、顧客に販売し、マーケティング調査も行います。よく動きとっても忙しそうです。
実際に起きたのは、次のようなことだった。
中山訳(日経BP) P93 / 大塚訳(岩波文庫) P76
[まず製造の側面では]
都市に住んでいた前貸問屋の一家の若者が農村を訪れて、自分の要望を満たせるような織物職人を慎重に選別した。そして職人たちを管理して、問屋への依存度を高めるようにして、半ば農民であった職人たちを労働者に仕立て上げたのである。
次に[販路の側面では]
問屋は最終購入者にできる限り直接に販売するように心がけた。小売業の仕事をすべて自分で引き受けて、顧客を個人的に獲得し、毎年決まった時期に各地を訪問し、特に顧客の要望と必要に合わせて品質を改善し、顧客の「好みにあった」製品を生産することができたのだった。そして「薄利多売」の原則が採用されはじめた。
実業家も労働者も「資本主義の精神」を持つか持たないかで、生き方が変わってくるというのが理解できる例でした。それでは「資本主義的な精神」を持っていた人はどんな人だったのでしょう。
[資本主義の精神] 資本主義的な前貸問屋はこんな人だった

資本主義の精神を持った人は「厳格な生活の規律のもとで育ち、冒険すると同時に熟慮する人々、とくに市民的なものの見方と原則を身につけて、醒めたまなざしで弛みなく、綿密かつ徹底的に仕事に従事する人々」(中山訳P96)でした。
また続いて、資本主義的な実業家は「みせびらかしや不必要な支出を嫌い、権力を行使するのも嫌で、社会的な名声を欲しがらない」ような禁欲的な人たちで、つまり「金が欲しい!あれがほしい!」というような人ではないと言っています。
[資本主義の精神] 金儲けをすること自体を天命と思う

資本主義の精神の持ち主は、享楽のために金を使わないけど、冷静かつ綿密に徹底的に金を稼ぎます。まさに「金を増やすこと自体を道徳的な義務とみなしなさい!」というフランクリンのアドバイスで定義した資本主義の精神でした。
金を増やすこと自体を義務とみなす、それをウェーバーは「「天職を遂行」すべきであるという非合理な感情を持っているだけ」といいます。義務だからやっているだけで、合理的な目的があるわけではないということです。
とはいえども、この「天職」のような考えが経済的な生存競争には必要なものだといいます。
資本主義的な経済秩序にとっては、このような貨幣を獲得することを「天命(Beruf)」と考えるひたむきな献身が必要なのである。こうした姿勢は、外的な事物にたいして人間が示す姿勢としては資本主義経済の構造にきわめて適したものであり、経済的な生存競争において勝利を獲得するための条件ときわめて密接に結びついているのである。
中山訳(日経BP) P100 / 大塚訳(岩波文庫) P82
これまでの例から、「金を増やすこと自体を目的とした」禁欲的な精神を持っている実業家が経済を発展させたことは理解できましたが、なぜ「金を稼ぐこと」が「天命」だと禁欲的な人は思ったのでしょうか?当時は金を稼ぐことは「醜いこと」「恥ずべきこと」だったのにもかかわらずです。それを解く鍵を宗教改革を行ったプロテスタントであるルターが誕生させるので、見てみましょう。
[ルター派] 天職(Beruf)の概念の誕生
「天職」という概念は、ドイツ語でBeruf、英語でCallingと訳され、「神から与えられた使命という観念が含まれている」(中山訳 P121)と書かれています。つまり、天職とは「仕事は神から与えられた使命」だということです。最初に「天職(Beruf)」という言葉が登場したのは、ルターが翻訳した旧約聖書の外典の「シラ書」に登場すると、ウェーバーは書いています。

基礎知識のおさらいですが、カトリックは修道院での活動、つまり「世俗外」での活動に価値を置いていました。
それに対して、プロテスタントであるルターは修道院の活動に意味がないと考え、日常生活である「世俗内」での活動を重視すべきだと考えていたようで、「天職=神に召された使命=日常生活の仕事」という位置づけをシラ書の翻訳で”Beruf”に与えたとのことです。
しかし、ルターは伝統主義からは抜け出すことができず、「天職」を発展させることなく、「世俗内的な仕事を肯定的に」捉えただけで終わってしまいます。
橋本努(1967-)氏の『解読ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』』(2019/講談社)でのルターの「天職」について説明している箇所がわかりやすかったので引用しておきます。
「身分制のなかであてがわれたこの世俗の仕事は、あなたの性に合っていないかもしれないけれども、神があなたに授けてくれたのです。だからあなたは、この仕事を通じて神に仕えなさい。そうすれば神に召されるでしょう。」およそこのようなメッセージが、ルターの言う「天職」には含まれていた。
解読ウェーバー 「プロテスタントの倫理と資本主義の精神」橋本努著(2019/講談社) P115
ルターは「日常生活の仕事」を「神から与えられた使命」だと定義した点においては非常に重要な役割を果たしました。ここでは「天職=仕事が神から与えられた使命」であることは理解できましたが、これだけだと「金儲けをすること自体が天命」であることの謎はまだわかりません。次の禁欲的プロテスタントのカルヴァン派の「予定説」がその謎を解明してくれます。
キリスト教の基本は「神の愛」と「救い」を説くこと

「予定説」に入る前に、そもそもキリスト教がどのような宗教なのかを整理しておきましょう。学研キッズネットにこう書かれています。「イエス・キリストを神の子、救い主と信じる宗教で、聖書を聖典とし、神の愛と救いを説く」。つまり「神の愛」と「救い」が重要だということです。予定説に関係するのは「救い」です。
では、キリスト教の「救い」とは何かというと、「罪が許されること」「肉体の死後も永遠に神と共に生きること」を意味します。予定説では後者の「死んだ後に救われるか?」という点が信徒にとって一番気になる点となります。
ここが『プロ倫』の核心であり、現代に生きるわたしたちは「死後に天国にいくか?地獄に行くか?を気にして生きている」いるわけではないので、当時のキリスト教の信徒たちが「救われるか、救われないか?をとても気にしながら生きている」ということを理解しておかないと、内容がわからなくなってしまいます。
カルヴァン以前のカトリック教会では、神は、あらかじめ救う人を予定してはいるものの、誰を救わないかについては、予定していないとされた。その意味で神の予定とは、部分的なものであった。神は、救済するかしないか、あらかじめ決められていない人たちがいるとされた。そのような人たちは、もし現世でよいおこないを積めば、救済される可能性があるとみなされた。神は、慈悲深い心を持っている。だから、よいおこないをすれば、救ってくださるとみなされた。
解読ウェーバー 「プロテスタントの倫理と資本主義の精神」橋本努著(2019/講談社) P143
カトリックの場合は、「善い行い」をすれば救ってもらえるかもしれない、ということです。ではカルヴァン派ではどうなるでしょうか。
[カルヴァン派] 予定説とは?

予定説を唱えたカルヴァンは、カトリックのように、「善い行い」をしたら救ってもらえるかもしれないという考えを、人間が神をコントロールしていると考え、それは神に対する冒涜だと考えました。
「人間のために神が存在するのではなく、神のために人間が存在する」(中山訳 P205)と考え、人間は神の道具として人生を過ごすように提案します。
その結果、「救われる人と救われない人は、すでに昔から神が決めている!」という予定説を立てます。
わたしたちが知りうるのは、一部の人間だけが聖別されていること、その他の人々は呪われたままの状態にとどまるということだけである。人間の功績や罪過が、この運命の決定に与っていると[すなわち神の決定に影響すると]考えるのは、まったく不可能なことである。それは、永遠の昔から決定されている絶対に自由な神の決意を変えうると考えるようなものなのだ。
中山訳(日経BP) P206 / 大塚訳(岩波文庫) P153
予定説はすごい考え方です。生まれる前から自分が救われているか救われてないかが決まっている、ということです。どんなに「善い行い」をしても「地獄行き」と決められた人は既に決まっているから、信徒たちはどうすることもできません。とはいっても、誰が天国に行くか?地獄にいくか?は神は教えてはくれないようです。
[カルヴァン派] 救われていることを知るための方法が登場!

カルヴァン自身は、自分は神に選ばれた者として救われていると感じていたが、信徒たちはそうはいかなかったので、2種類の勧告が登場します。
1)自分が選ばれていると信じることが義務
選ばれていると信じなさい!ということです。
2)職業労働に休みなく従事せよ
「ずっと仕事をしていれば、救われる」ということです。休んだりすると救われなくなるので、信者は仕事をし続けることとなります。
ここでようやく、「神から召された仕事=天職」を全うする、というお話に繋がりました。
つまり、「天職」に励む理由は「救われることを確信するため」だということが分かりました。ただ、「めっちゃ儲ける」理由はバクスターを待つ必要があります。
西洋の禁欲概念は歴史的な土台があった
ここで「合理的で計画的に生きていく」ことを指す「禁欲」が東洋と違い西洋には中世から存在していたことをウェーバーはいいます。西洋には「禁欲」が支持される土台が歴史的に存在していたことをいいます。

西洋では中世にすでに、禁欲が最高に発達した形態で登場していて、合理的な性格を備えていた。「東洋の禁欲的な僧侶の生活と比較して、西洋の修道士の生活の世界史的な意義は、この合理性にあった」(中山訳 P271)と、東洋の禁欲的な僧侶と比較すると、西洋の修道士は合理性を重視した点を強調しています。
西洋では、禁欲のための手段として「生活態度に秩序をもたらす」ことがカトリックの修道士の規律やカルヴァン派の信徒の生活態度の原則に書かているようです。
禁欲は「生活に合理的で秩序を与える」もので、プロテスタントは日常生活(世俗内)で、この合理的な秩序の維持を重視します。
つまり、カルヴァン派は「予定説」で仕事に一生懸命取り組むことが定められましたが、それをドライブさせた「禁欲」は急に登場したものではなく、歴史的に土台があったとのことです。
続いて、禁欲的プロテスタントの、敬虔派、メソジスト派、洗礼派などを解説していますが、ウェーバー的には、「資本主義の精神」を持つプロテスタントは「カルヴァン派」を重視するので、各宗派については省略します。次は『プロ倫』のまとめとなる、第2章第2節「禁欲と資本主義の精神」を見ていきましょう。
[禁欲と資本主義の精神] 富の所有、時間の浪費、性的な誘惑、労働意欲の欠如はNO!
第2章第2節「禁欲と資本主義の精神」では、「天職の理念を最も首尾一貫した形で基礎づけたのは、カルヴァン派から生まれたイギリスのピューリタニズム」だから、ピューリタンの代表としてリチャード・バクスター (1615-1691)の著作から「資本主義の精神」と「プロテスタンティズムの倫理」の関係を探っていきます。

まず最初にバクスターの著書から、ピューリタンの基本的な考えを紹介しています。
●富の所有
●時間の浪費
●性的な誘惑
●労働意欲の欠如
上記の4つの項目はすべてバクスター的にはNO!です。富も追い求めちゃだめだし、時間も無駄遣いしちゃだめ、性的な誘惑にも勝たないとだめで、仕事をちゃんとやらないといけません。まさに禁欲そのものです。
[禁欲と資本主義の精神] 神が「利益率の高い仕事」を要求する

バクスターの教説には、ピューリタンの職業選択は「神に喜ばれるかどうか」を基準にして決めると書かれています。
その基準とは
①「道徳的な仕事」
②「社会全体に貢献する仕事」
③「利益率が高い仕事」
の3つだと言っています。
実業家の人々は「利益率が高い仕事」を選ぶことになります。神がビジネスにおいて「儲けること」を道徳的に命じるのならば、その要求に従うことがプロテスタントの行うべきことになります。
固定した職業の持つ禁欲的な意味が鋭く感じられるようになるとともに、近代の専門人は倫理的な輝きを放つようになったが、これと同じように近代の実業家は、利潤の機会を追求することが神の意思であると解釈されるようになって、倫理的な輝きを放ち始めたのである。
中山訳(日経BP) P429 / 大塚訳(岩波文庫) P317
近代のプロテスタントの実業家たちは、「儲ける」ことが「神の意志」と解釈されたので、倫理的に仕事に打ち込めるようになりました。
[禁欲と資本主義の精神] 「富の所有」と「職業の営み」の正当化の完成

禁欲の観点からは「富を獲得すること」は「邪悪の極み」だけど、仕事の結果として「富を獲得すること」は「神の恵み」で、禁欲の観点からは「仕事を不断に、組織的に行う」ことは「最高の禁欲的手段」です。そして、これらが「資本主義の精神」を駆動するためのテコとしてピューリタンたちに機能したといいます。
これで、ピューリタンたちにとっては「仕事をして稼ぐこと」が、「とてもよいこと、すべきこと」になりました。カルヴァン派の「予定説」をはじめとした「神から召された天職」がついに「金儲け」に繋がりました。
さらに、得られた富は「消費の目的」で利用するのは「邪悪の極み」なので、それらは「投下資本」として、事業をさらに拡大するために利用されます。まさにフランクリンの言う「豚が豚を生む」ということが宗教の倫理として正当化されました。
これまで述べてきた消費の抑圧と、この営利の営みの開放とを一つに結びつけてみよう。その外面的な結果がどうなるかは、すぐに理解できる。禁欲という手段で節約を強制しながら、資本が形成されるのである。利潤として残された資金を消費の目的で支出することが妨げられるならば、それは投下資本として生産的に利用されねばならなかった。
中山訳(日経BP) P465-66 / 大塚訳(岩波文庫) P345
[禁欲と資本主義の精神] やはり「富の誘惑」には勝てない

メソジスト派の創始者であるジョン・ウェスレー(1703-1791)は、禁欲的プロテスタントは「勤労」と「節約」をするから、それに伴って「富をもたらさざるを得ない」といいます。だけど富が増えると「誇りが高くなり」「情熱が高く」なって「現世の欲望」や「驕り」が強くなり、「富の誘惑」に打ち勝つことはできないだろう、と予測します。
修道院も富が増えていくと「貴族的に振る舞う」ようになり、それを抑制するように革命が起こり、それらを繰り返していた歴史的な経緯も振り返っての予想をたてていた。
わたしたちは信徒が勤勉になり、節約することを妨げることはできない。わたしたちはすべてのキリスト者にたいして、できるかぎり多くの利益を獲得するとともに、できるかぎり節約するように戒めねばならない。しかしその結果はどうなるかというと、富が蓄積されるということなのだ。
中山訳(日経BP) P475-6 / 大塚訳(岩波文庫) P353
17世紀のバクスターが、富の所有と職業の営みを宗教的に正当化したが、次の世代の18世紀のウェスレーはその倫理は富を増やしたが、やはり富が増えるとその誘惑からは逃れられないだろう、と予想してしまいます。そして、その予想は的中してしまいます。
[禁欲と資本主義の精神] 禁欲を失う実業家、禁欲を貫く労働者

「金儲けの精神」は、17世紀の「宗教的な倫理観」から18世紀には「職業的な道徳観」の功利主義な価値観に移行します。
実業家は「金儲け」を正当化する道徳で自身を安心させ宗教的な倫理観は衰退していくが、労働者は「労働を神が望まれた生活」と考え、真面目で良心的で、高い労働能力を持つようになります。
ただし、実業家は労働者は労働を「天から与えられた職業」と考えることから、労働者から搾取することを正当化するようになる。
プロテンタティズムの禁欲は(中略)、労働を天から与えられた職業と考え、自分が救われていることを確信するための最善の手段であると考えたために、労働への意欲という心理的な原動力を作り出したのだった。そしてこの原動力なしでは、労働すべきであるという規範が、規範としての力をもつことはできなかったのである。
中山訳(日経BP) P485-6 / 大塚訳(岩波文庫) P360
他方では、プロテンタティズムの禁欲[の精神]は、実業家の営利活動もまた「天から与えられた職業」とみなすことで、実業家がプロテスタントの労働者に特有の労働意欲を搾取することも合法的なものとなったのである。
[いまの社会] 「金儲け」が「鋼鉄の檻」のようにわたしたちを縛る
最後に『プロ倫』で論じていた内容をまとめた文章をみてみましょう。
近代資本主義の精神を構成する本質的な要素の一つ、そしてたんにそれだけでなく近代の文化そのものを構成する本質的な要素の一つは、天職という観念を土台とした合理的な生活態度であるが、この態度はキリスト教的な禁欲から生まれたものだ。
中山訳(日経BP) P490-1 /大塚訳(岩波文庫) P363-4
ルターがシラ書の翻訳で登場させた「神から与えられた使命=天職」という概念が、カルヴァン派では「救いの確証」で義務とされ、「仕事を義務」とする考えが歴史的に形成されていたことを見てきました。ピューリタンでは「儲ける」ことが道徳として追加され、「禁欲的に儲かる仕事を行う」ことを義務としたことで、経済が発展したけど、「富の誘惑」に打ち勝つことはできず、信仰心が消えていきました。

バクスターにとっては、「金儲け」は、「禁欲」がサポートしてくれて、簡単に抜け出せるようなものだったけど、いまや「禁欲」のサポートも要らなくなり、「鋼鉄の檻」のようになり、今の人間は生まれながらにして「鋼鉄の檻」の中で暮らすように、決して逃げることができない、他の選択肢を選ぶことができない状態となっています。
仕事をすることが、天職でもなくなり、最高の禁欲的手段でもなく、経済的に強制されるようになったとしても、「仕事をすること自体」の意味を詮索することもしなくなりました。
バクスターによれば、外的な財への関心事は、ちょうど「いつでも脱ぐことができる薄い外套」のように、徳のある人たちの肩にかけられていなければならないものである。しかし[歴史の]運命は、この外套を、鉄のように硬い網[檻、枠、住まい、殻Gehäuse]のようなものにしてしまった。禁欲の運動が世界を改造しはじめ、この世俗社会に対して衝撃を与えるようになると、この世俗における外的な財は歴史上かつてないほど増え、ついには人々にたいして逃れることができないほど大きな力をふるうようになった。もはや最終的なのかどうかは誰にもわからないけれども、それがある機械仕掛けで動く基盤を持って以来、禁欲によってサポートされる必要はなくなった。禁欲の陽気な後継者である啓蒙主義は、かつてはバラ色の雰囲気をもっていたけれども、いまや消え失せてしまったようである。
解読ウェーバー 「プロテスタントの倫理と資本主義の精神」橋本努著(2019/講談社) P263 / 中山訳(日経BP) P492-3 / 大塚訳(岩波文庫) P365
[いまの社会] 「金儲け」がスポーツのようにハイスコアだけを狙う競争となる

「金儲け」をする意味なども詮索されることもなくなるので、いまやスポーツのように、どの企業がナンバーワンか?、どの企業が人気か?平均年収がどれくらい高いか?、時価総額がどれくらいか?などのパラメーターを気にして生きるようになってきます。
ウェーバーは次の時代が「不自然極まりない尊大さで飾った機械化の化石のようなもの」になった場合には「精神のない専門家、魂のない享楽的な人間。この無にひとしい人は、自分が人間性のかつてない最高の段階に到達したのだと、自惚れるだろう。」(中山訳 P494)が真実となる、と書いて終わります。
最後の文章は、オルテガが「大衆の反逆」で語っていた「大衆」の定義と一致します。おそらく「大衆の反逆」のほうが新しいので、オルテガはウェーバーを踏まえて話を進めていると思います。
おわりに
この本は、世界中には「自分のために金をめっちゃ儲けるぞ!」と考えた拝金主義的な人々は中国やインドなどを筆頭にたくさんいたけど、資本主義は西洋で「産業革命」から進化し、それらを実現した人たちは、日常生活で「時間を守る」「計画を立てる」「なんでも欲しがらない」ような「きちんと」した人々であるプロテスタントだったという、わたしたちが思い浮かぶイメージとは異なるストーリーを描いたのが面白い点でした。
そんな禁欲的なプロテスタントの人たちがなぜ「金儲け」に邁進し、巨大企業を作り上げたのかは、「宗教改革」を行ったルターが「仕事」を「神から召された天職」と位置付け、カルヴァン派が「救いを確かにするには仕事に勤しみなさい」と定義してから、信徒たちは猛烈に仕事をするようになって、続いてバクスターが「利益率が高い仕事をすると神は喜ぶ」ということで、猛烈に「金儲け」に勤しむようになった「心構え」が作られたからでした。つまり、猛烈に「金儲け」をしたのは「神に喜んでもらい、死んだ後に天国に行きたいから」という動機からでした。
『プロ倫』は世界史やキリスト教のことを知っていないと、何を言っているかわからない本ではありますが、理解できるととっても面白いストーリーを描いています。今回はデザインというよりも、プロジェクトの進め方や、人々の仕事に対する「動機や心構え」という点で学ぶところが多い本だと思いました。
いまのわたしたちは「救われるために仕事を頑張るぜ!」なんて宗教的な考えはありませんが、どうして「金儲け」をするのか?という点では、途中で登場するリチャード・バクスターは「職業の専門化は公共の福祉の向上に貢献する」(中山訳P416)と説明していて、「公共の福祉」のために「金儲け」するという考え方が今の考え方に近い気もします。「みんなが幸せになるための金儲け」という考えは動機としては妥当だと感じます。

2011年にハーバード大学経営大学院教授のマイケル・ポーター(1947-)さんがCSVという考え方を提示していて、「金儲け」と「社会への課題解決や貢献」を共存させるという話をしています。
稼いだ金を「単なる社会貢献」として投資するのではなく、「社会貢献しながら金儲け」をするために投資するという話です。そうすると公共の福祉を維持しながら社会を継続できる可能性が高まるということだと思います。
自らの利益を最大化するだけの理由で「金儲け」をするだけでなく、社会で問題となっていることをクリアにしながら行うことで、秩序を持つ世の中を作る方が、倫理的にも経済的にも合理的だし、ウェーバーいわく拝金主義では進化しないという話から考えると良いと思われます。
CSVとはCreating Shared Value(共通価値の創造)の略で、企業が社会的な価値(社会課題の解決や社会への貢献)と経済的な価値・利益の両方を創出するという考え方のことを指し、ハーバード大学のマイケル・ポーター教授が提唱しました。CSVは、企業の利益よりも社会への貢献を優先するボランティア精神のようなものではありません。社会貢献と企業利益をトレードオフとして捉えるのではなく、これらを両立させることで企業の競争力に資することを目指します。
共通価値の創造(CSV)(大和総研”WORLD”ページより)
資本主義社会ではウェーバーのいうように「金儲け」という「鋼鉄の檻」から逃れることはできないけど、その「鋼鉄の檻」の中で過ごしながらも、ハイスコアだけを狙わずに生きていける考えはいろいろとあると思うので、個人的には、そのような視点からサービスやデザインを考えていきたいと思う次第です。
その他の社会学系コラム
著者について

鳥居 斉 (とりい ただし)
1975年長崎生まれ。京都工芸繊維大学卒業、東京大学大学院修士課程修了、東京大学大学院博士課程単位取得退学。人間とモノとの関係性を重視した、製品の企画やデザイン・設計と、広報、営業などのサポートの業務を行っています。
2013年から株式会社トリイデザイン研究所代表取締役。芝浦工業大学デザイン工学部、東洋大学福祉社会デザイン学部非常勤講師。
詳しくはこちら
コラムでは製品を開発する上では切り離せない、経済学や社会学など、デザイナーの仕事とは関係なさそうなお話を取り上げています。しかし、経済学や社会学のお話は、デザインする商品は人が買ったり使ったりするという点では、深く関係していて、買ったり使ったりする動機などを考えた人々の論考はアイデアを整理したりするうえでとってもヒントになります。
また、私の理解が間違っている箇所がありましたら、教えていただけると嬉しいです。デザインで困ったことがありましたらぜひご相談ください。
最新のお知らせ
- 2025.12.12
- トリイデザイン研究所は12周年を迎えました!
- 2025.10.15
- 「津軽塗お箸研ぎ出しキット」がグッドデザイン賞2025を受賞
- 2025.09.01
- ランドル・コリンズ『脱常識の社会学』を読む [コラム021]
- 2025.08.01
- アーヴィング・ゴフマン『日常生活における自己呈示』を読む [コラム020]
- 2025.07.17
- 夏季休暇のお知らせ 07/26-08/03
- 2025.07.14
- M.ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読む [コラム019]
- 2025.06.27
- ティエリー・ノワール「RUSH HOUR」展が7/9日〜31日まで東京と香港の二都市で同時開催!
- 2025.05.05
- オルテガ・イ・ガセット『芸術の非人間化』を読む [コラム018]
- 2025.05.01
- オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』を読む [コラム017]
- 2025.04.01
- ノルベルト・エリアス『文明化の過程』を読む [コラム016]
- 2024.12.29
- ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン』を読む [コラム015]
- 2024.12.12
- トリイデザイン研究所は11周年を迎えました